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2023年4月26日水曜日

森の鞘

 


大江健三郎のよき読書らしいアナタに聞きたいのだが、「森の鞘」がカナメなんじゃないかね、大江の小説において。


たぶん最初は1979年の『同時代ゲーム』に現れ、21世紀に入ってからの後期作品にも頻出するらしい(実は私は後期大江をほとんど読んでいないのだが)。


ここでは手元にある『懐かしい年への手紙』から引用しよう。


妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。〔・・・〕そしさて帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。〔・・・〕


――ギー兄さんと森の鞘で、と青年はいって、アハッとヒステリックな具合に笑った、とオユーサンは不思議そうにつたえたが、鞘は「在」で女子性器の隠語なのである。あんたがヤッテおるのを見たが、ああいう場所でタワケられては、村が困る。あんたからわしに相談したいなら乗らんでもないが…… そうでなければ、今日の晩方から4Hクラブの集まりがあるのやし、そこで仲間の連中みなに話してみなならんが!


オユーサンはよくわからぬ外国語を聞き流すように、立ちどまりもせず頭と日傘をかしげて青年をすりぬけた。しかし二、三歩あるくうちに、一瞬すべてが理解されて、悪寒におそわれるほどの怒りのとりこになった。 (大江健三郎『懐かしい年への手紙』1987年)



アナベル・リイにもこうある。


(この村芝居の舞台が設営される)鞘は〔・・・〕原生林に隕石が造った細長い空間を指しているが、この土地では女子性器をいう隠語でもある。(大江健三郎『美しいアナベル・リイ』2007年)



森の鞘の上に舞台が設営されるなんて、まるでタントラ派のブッダのようだよ。


かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[eva mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahdayavajrayoidbhageu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra


そもそも大江の小説に限らず、あらゆる人間の「身語心」活動は、森の鞘の上での役者に過ぎないのではないかね。


この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず すべてこれ役者にすぎぬ(All the world's a stage, And all the men and women merely players.)(シェイクスピア『お気に召すまま』)


アナタはどう思う?


で、タマシイの還るところは森の鞘じゃないかい?


この村に生まれた者は、死ねば魂になって谷間からでも「在」からでもグルグル旋回して登って、それから森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごすといわれておりましょう? そもそもが森の高みにおった魂が、ムササビのように滑空して、赤んぼうの身体に入ったともいいましょうが? (大江健三郎『M/T と森のフシギの物語』1986年)

本当に魂が森に昇るのなら、谷間からでも「在」からでも、東京からでも長崎からでも、おなじじゃないのかな? 鮭は孵化した川に戻ってくるというが、魂には魂の本能のようなものがあるのやないか? (大江健三郎『懐かしい年への手紙』1987年)



そもそも『同時代ゲーム』のこの図ってのはどう見たってエロトスだよ。




 ゴーギャンの『我々はどこから来たのか  我々は何者か  我々はどこへ行くのか』(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)(1897年)の大江版として眺めてみる手があるんじゃないか、これ。