このブログを検索

2023年5月1日月曜日

スカート奥の昇華の不可能性


人間のやってることは何でも性欲動の昇華だよ。


プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)

人間の日常生活の観察が示しているのは、たいていの人は性的欲動力を大部分を彼らの職業活動に振り向けることに成功していることである。Die Beobachtung des täglichen Lebens der Menschen zeigt uns, daß es den meisten gelingt, ganz ansehnliche Anteile ihrer sexuellen Triebkräfte auf ihre Berufstätigkeit zu leiten.(フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第1章、1910年)

ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science](ラカン、S7, 03  Février  1960)



僕が今こうやって書いてるのも、欲動の昇華、つまりは《エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 [die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert ]》(フロイト『自我とエス』4章、1923年)だね。


不幸にも完璧には昇華できないけどさ。


人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人において完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。

抑圧された欲動[verdrängte Trieb] は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)



耳を澄ましたらよくわかるよ、エスのリビドーの脱性化は不可能なのが。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)


本来、文学ってのはこの昇華の不可能性を書くものさ。少なくとも暗示するものだね、メフィストフェレス曰くの「束縛を排して休みなく前へと突き進む」性欲動をね。そうでない「お上品な」文学ってのはみなインチキだよ。


……………………


スカートのいよよ短し秋のかぜ

スカートの内またねらふ藪蚊哉


ーー『断腸亭日乗昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六 九月初七。


実は「蚊居肢」の起源は主にこの荷風にあるんだ。ほかにも種々の起源ヴァリエーションはあるけどさ。



赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ

ーー谷川俊太郎「素足」『女に』所収、1991年




暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっていたのを、僕は立て直そうとした。〔・・・〕

炎の起こったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた。マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……


もっともまり恵さんは、僕がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をするかわりに、あらためて疲れと憂いにみちているが、ベティさん式の派手な顔に微笑を浮べ、かならずしも精神プロパーではない提案をした。さりとて肉体プロパーでもなかったはずだが……


ーー今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?


――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。


ーーつまりヤラなくていいわけね。……私も今夜のことを、懐かしく思い出すと思うわ、ヤッテも、ヤラなくても、とまり恵さんはむしろホッとして様子を示していった。(大江健三郎『人生の親戚』1989年)


夕暮れにひとりきりになって立つ女の子の、その背後に男の子が忍び足でまわり、いきなりスカートの下に手を入れて、下ばきを膝までおろしてしまう。女の子はそれにしてはたじろかず、なにか遠くへ笑っているような顔を振り向けてから、腰をまるく屈めて下ばきをなおし、何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る。(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』2017年)





◼️吉岡実


たえずまくれるスカートのなかの鱗で飾られた脚


ーー「水のもりあがり」



悲劇の少女にはふりむく真の正面がない

水色のスカートの腰をよじって

ねぐらへ鳥の飛ぶのを仰ぎつづける


ーー「フォーサイド家の猫」



ピンポン球をスカートのなかへ

少女たちは隠したままだ


「ただ この子の花弁がもうちょっと

まくれ上がっていたら いうことはないんだがね」


ーー「不思議な国のアリス」



一台の自転車

その長い時間の経過のうちに

乗る人は死に絶え

二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から

みどりの植物が繁茂する

美しい肉体を

一周し

走りつづける

旧式な一台の自転車

その拷問具のような乗物の上で

大股をひらく猫がいる

としたら

それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ

禁欲的に

薄明の街を歩いてゆく

うしろむきの少女

むこうから掃除人が来る


ーー「自転車の上の猫」






ナオミさんが先頭で乗り込む。鉄パイプのタラップを二段ずつあがるナオミさんの、膝からぐっと太くなる腿の奥に、半透明な布をまといつかせ性器のぼってりした肉ひだが睾丸のようにつき出しているのが見えた。地面からの照りかえしも強い、熱帯の晴れわたった高い空のもと、僕の頭はクラクラした。(大江健三郎「グルート島のレントゲン画法」『いかに木を殺すか』所収、1984年)


男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないのである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。 


乳くさい子供の香がまだプンプン匂うような、しかし、精気たくましくもりあがった形の可愛いゝお乳とお尻を考えて、和尚は途方にくれたのである。お釈迦様はウソをついてござる。男が悟りをひらくなんて、考えられることだろうかと。(坂口安吾『行雲流水』1949年)



女のふくらはぎを見て雲の上から落っこったという久米の仙人の墜落ぶり〔・・・〕。

然しまことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。(坂口安吾『教祖の文学――小林秀雄論――』1947年)





時間はとまつてしまった

永遠だけが残ったこの時間のない

ところに顔をうずめてねむつている

「汝を愛するからだ  おお永遠よ」

もう春も秋もやつて来ない

でも地球には秋が来るとまた

路ばたにマンダラゲが咲く


ーー西脇順三郎「坂の五月」



結局、唯一の悟りは悟りなどないことを悟ることだよ。犀星が、次のように書いたように。



父親は話はこれから妙境にはいるのだと言ひ直し、娘を肘で小突いて見せたが、娘はわかつたわよ、あのことでせうと答へ、例の膝の頭から少しづつスカートに時間を置いて、上の方にずらせて行つた。上の方には十四歳の膝がきよらかな瞳をぱちくりやつて、あらはれた。見物人は一樣に自分の狼狽の氣色を見せまいとして、却つてあをざめた顏色になつた。それはさういふ處で見てはならないものであつて、見た者は一旦それを見たことによつて見ない以前にまで立ち還らなければならないものであつた。そこにまごついて收拾出來ない氣分の混亂があつた。娘の手はスカートを放さずにもつと上の方にまで、それをずり上げる氣はいを見せ、見物人はいま一息といふところで持前の横着な心を取り戻したのである。いまの先に味つた見てはならないものである氣配のきびしさはもう見えなかつた。見てやれ、このちんぴらのそれが何であらうと見てやれといふ圖太い氣が募り出して來た。娘はうたひ出した。夏草は生ひ、橋はかくれた、と、ただそれだけを何度も繰りかへしてゐた。そんな歌よりもつとスカートをあげろ、じらすな、おあづけするなんて、こつとら犬ぢやねえぞと或る者は少し醉つて呶鳴り、娘は顏をあからめスカートをずつと下ろして、膝も何も見えなくして了つた。

恰度、うまいぐあひに日はさすがに次第に灰鼠色に暮れていつた。さあ、これからだと父親は帽子の裏を見せて、金を集めにかかつた。娘はこの街裏に巡査のすがたが、ないかどうかを警戒しはじめた。

「早く行かないとデパートが閉つてしまひますよ、お金までお出しになつて一體あの娘さんの裸を見るつもりなの、あきれた、あなたといふ人はまるで溝みたいに汚ない處につながつてゐるのね。」

「人間にはいつも偶然といふやつがあつて、それを逃がしてしまふと無味乾燥の地帶を歩かなければならないのだ。何もさう急いで此處を外す必要がない、三百圓といふ金で人間は駭いて、その駭きで見る物を見てゐた方が面白いのだ。」

「女をつれたあなたの、それが本音だと仰言るんですか、獨り者ならそんな氣になることも許せるんだが、あなたはちやんとした妻まで持つてゐて、まだ見たい物がそんなに澤山にあるんですか、まるで恥づかしいことを知らない方だ、あなたがゴミ箱のそばにいらつしやるのを、あたしがぢつと見てゐられるとお思ひになるんですか。」

では、君に質問するが、君は十四歳の膝といふものを僕に見せてくれたことがあるかどうか、いまこの機會をのがしたら僕は十四歳の膝を見ることが生涯にないのだ。」

「十四歳の膝に何があるの。」

「十四歳の膝自體は人間といふものを見たことがないのだ、人間がそれに乘ることが出來ないところに、やがては誰かが乘るまでの、無風状態が僕を惹きつけるのだ。嘗て人間の中の女はみなかういふところで、誰にも見られず本人も知らないで育つたといふことに、いま氣がつきはじめたのだ。たんにそれは清いとか美しいといふものではなく、ああ、能くそれまでにひそかに形づけられ成長したといふことで、人間がまれにおぼえる感謝といふものをひそかに受けとりたいのだ、そしてそれは君の十四歳といふ年齡にあと戻りして君を愛するもとにもなる。君は目前のいやらしさがたまらないといふのであらう、僕だつてこの少女の前では僕自身がどうにも厭らしくてならないのだ、併し僕のかういふ根性はここまで墮落してかからなければゐられないのだ。」

「ぢやごらんになるがいいわ、恥づかしくなかつたら。」

「恥づかしいからそれを揉み消すために、無理にも見物するのだ。」

「出來たらその不潔な眼をくり拔いてあげたい。」

「僕もいつもそれをねがつてゐるのだ、僕のセックスも引き拔きたいのだ。」

「あきれた。」

「この二匹のうはばみを見物してゐるのは僕や君ではなくて、實は僕や他のここにゐる連中がかれらから見られてゐるのだ。少女の前でいやおうなしに何かを白状してゐる僕らが、やはり同樣の何匹かのうはばみなんだ。」

「あなたはそんな下劣さをふだんには、うまく匿くしていらつしつたのね。何食はぬ顏つきで女のどんな部分でも見逃がすまいとしていらつしやる慾情が、あたしに嘔きたくなるくらゐ厭世的な氣持になるわ。あんな女の子の膝が見たいなんて、それは、まともな人間の考へだと思つていらつしやるんですか。」

「僕が拂ふ金であの子は何かが買へる。僕が見ないで通りすぎればあの子の收入がそれだけ減るのだ、僕自身だつて見ないより見た方がいい、美しい人間を見ることに誰に遠慮がいるものか。」「あたしがゐても、見たいんですか。」

「君がゐるから一そう見たいのだ、君にない物がここに存在してゐるとしたら、それを見るといふことも物の順序なんだ。」

「なさけない方だ。そんな方と肌を交はしてゐたことが取り返しのつかない氣がして來るわ。いまは見るかげもない一人の男としてのあなたを、その見るかげのない處からたすけ出すことがあたしには厭になつて來ました。あたしは何時もあなたのいやらしいところから、それをたすけるためにいろいろ苦心をして來たんですけれど、もうまるでそんな氣は打抛つて了ひました。ゆつくりご覽になつた方がいいわ。その眼が眞正面にいとけない女の子に對つてゐられたら、此處に殘つて見ていらつしやい。人間のまもらなければならないところに、そのまもりを破つても物を見ようとする心が、どのあたりできまりがつけられるかも、ついでに能く見て置いた方がいいわ。」

人間なんかに、物のきまりがあるものか。君の説得はそれきりなの。

「あさましい方だ。あさまし過ぎて白紙みたいな方だ。併しどうしてそれにいままであたしが氣がつかなかつたのか、寧ろあたしはそれを搜してみたい氣持なんです。」

「僕はそれでたくさんなのだ、品の好い人間にならうと心がけたことは、いまだ、かつて一度だつてないのだ。」

「では、あたしお先にまゐります。ゆつくりごらんになつてゐた方がいい。」

「何も先きに行かなくとも、二分間もあれば見られるぢやないか。」

「その眞面目くさつたお顏も、いままでに一遍だつて見たことがないお顏なんです。あなたにも、そんな懸命みたいなお顏をなさるときがあるのね。」

「あるさ、けふはそれが甚だしく現はれてゐるとでも、君はいひたいのか。」

「二分間であたしを失ふことになつたら、どう處置なさるおつもり。」

「この二分間がどんなに汚ないものであつても、君は去らないさ。」

「去つたとしたら?」

「去らないよ君は、かういふことで女が去るとしたら、女は一生涯去り續けなければならないものだ。」

「では行くわ。」

(室生犀星『末野女』初出:「小説新潮」1961(昭和36)年9月)




………………



というわけで、「人間は神々のおもちゃ」だね、そう言う他ない。



ソクラテスにとっては愛は美を仲だちとする生殖の衝動である。いやまったく、この快楽の笑うべきくすぐりを、ゼノンやクラティッポスをさえとらえた無分別無鉄砲なばかばかしい興奮を、あの慎みのない狂暴を、最も甘美な愛の極致におけるあの狂暴と残忍で真赤になったあの顔つきを、それからまた、あのような狂おしい行為の中におけるあの謹厳なようでまたうっとりしたような素振りを、いやそこに、我々の享楽と不浄とがまぜこぜになっていることや、至上の歓楽は苦痛と同様にしびれと呻きとを含んでいることなどを、幾度となく考察すると、わたしはプラトンの言うとおり、「人間は神々のおもちゃである」というのは真理だと思う。

Pour Socrates, l'amour est appetit de generation  par l'entremise de la beauté. Et considerant maintefois  la ridicule titillation de ce plaisir, les absurdes mouvemens escervelez et estourdis, dequoy il agite Zenon et Cratippus :  cette rage indiscrette, ce visage enflammé de fureur et  de cruauté, au plus doux effect de l'amour : et puis  cette morgue grave, severe, et ecstatique, en une action si folle,  qu'on ayt logé pesle−mesle nos delices et nos ordures ensemble :  et que la supreme volupté aye du transy et du plaintif,  comme la douleur : je crois qu'il est vray, ce que dit Platon,  que l'homme a esté faict par les Dieux pour leur jouët. 

(モンテーニュ『エッセイ』第3巻第5章「ウェルギリウスの詩句について」)



神のおもちゃではなく、神々である ➡︎《神性はある。つまり神たちはいる。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)