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2023年5月1日月曜日

デ、キミハ美人カイ

 オハヨ


僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。


僕自身の経験によれば、最も甚しい自己嫌悪の特色はあらゆるものに譃を見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。


僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者等、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。


僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。


僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。


ーー芥川龍之介『僕は』(大正一五・一二・四)




デ、キミハ美人カイ




相手が女だと、憎しみの情に、好奇心や、親しくなりたいという欲望、最後の一線を越えたいという願望などといった、好意のあらわれを刻みつけることができる。(クンデラ『冗談』)

※蚊居肢注:「相手が美女だと」

※西鶴注 :「美女美景なればとて不斷見るにはかならずあく事」(『好色一代女』)

※モンテーニュ注

女というものは、たとえどんな醜女に生れついても、まったく自惚れを持たないことはない。あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたずにはいないのである。まったく、何もかも美しい女がいないように、何もかも醜い女もいない。il n'y a guère de femme, si disgraciée soit-elle, qui ne pense être digne d'être aimée, qui ne se fasse remarquer par son âge, ou par sa chevelure , ou par sa démarche, car des femmes absolument laides, il n'y en a pas plus que d'absolument belles. (モンテーニュ『エセー』第3部第3章16節)