何度も記してるんだけどさ、僕はドゥルーズ&ガタリの『アンチオイディプス』を批判はするが[参照]、『差異と反復』は偉大だよ。特に第2章でこう書いたドゥルーズはね。 |
反復は、ひとつの現在からもうひとつへ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。La répétition ne se constitue pas d'un présent à un autre, mais entre les deux séries coexistantes que ces présents forment en fonction de l'objet virtuel (objet = x). 〔・・・〕 そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる「原」抑圧[un refoulement dit « primaire »]と考えてしまってはいたのだが。Freud le sentait bien, quand il cherchait une instance plus profonde que celle du refoulement, quitte à la concevoir encore sur le même mode, comme un refoulement dit « primaire ». (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
で、ドゥルーズ研究者に問いたいのは、きみたちはこの記述を正面から受け止めているのかい、ということだ。例えば、きみたちが喋ったり、惚れたり、研究活動したりしてんのは、この原抑圧に関わる潜在的対象(対象=x)に即した「反復」なのかどうか一度でも自ら問うたことがあるのかい? ということだ。僕の見るところでは、ドゥルーズが上のように記してもう半世紀以上経つのに、正面から受け止めてるヤツは皆無だね、だから馬鹿にしてんだよ。もともとドゥルーズに限らず巷の人文系研究者ってのはそういうもんかもしれないが。 |
ドゥルーズは序章でも反復の原理は原抑圧だと強調している。 |
フロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。 Car lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un refoulement originaire, concernant d'abord des présentations pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年) |
で、フロイトにおいて原抑圧は固着、欲動の固着のことだよ。 |
||||
「抑圧」は三つの段階に分けられる「das »Verdrängung«… den Vorgang in drei Phasen zu zerlegen]〔・・・〕 ①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕 この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する。そしてさらに、とくに三番目の抑圧の相を生み出す決定因となる[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen, die Determinierung vor allem für den Ausgang der dritten Phase der Verdrängung. ]〔・・・〕 ②抑圧の第二段階は、正式の抑圧である。この段階は精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているが、これは自我のより高度に発達した意識システムから生じ、実際には「後期抑圧」と表現できる[Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung, die wir bisher vorzugsweise im Auge gehabt haben. Sie geht von den höher entwickelten bewußtseinsfähigen Systemen des Ichs aus und kann eigentlich als ein »Nachdrängen« beschrieben werden.]〔・・・〕 主に①の原初に抑圧された欲動がこの後期抑圧に貢献する[…Beitrag von Seiten der primär verdrängten Triebe unterscheiden. ]〔・・・〕 |
||||
③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰である [Als dritte, für die pathologischen Phänomene bedeutsamste Phase ist die des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ] この侵入は固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその固着点へのリビドー的展開の退行を意味する[und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分 析的考察』(症例シュレーバー )1911年、摘要) |
||||
で、このリビドーの固着点がラカンの対象aでありトラウマの穴だ。 |
||||
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
||||
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
||||
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
||||
だから論理的にドゥルーズの潜在的対象(対象=x)[l'objet virtuel (objet = x) ]はラカンの対象aなんだな。事実、ドゥルーズは同じ第2章で固着用語を示しつつ、欲動の固着と反復を結びつけている。 |
||||
固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。 Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
||||
ーー実にドゥルーズはフロイトをよく読み込んでいる、日本のドゥルーズ研究者とは大違いだな。 この自動反復 [automatisme] 概念は、フロイトの『制止、症状、不安』10章に現れる。 |
||||
欲動蠢動は「自動反復 Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着の契機は「無意識のエスの反復強迫」である。Triebregung […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
||||
ーーちなみに後期ラカンの鍵はこのフロイトの『制止、症状、不安』の特に第10章だ[参照]。ラカンの後期とは1970年以降、70歳以降であり、この意味で、ドゥルーズのフロイト読解はラカンに先行しているとさえ言える。1968年、43歳のドゥルーズは。 要するに、ドゥルーズの反復は、フロイトの無意識のエスの反復強迫のことに他ならない(先に示した『症例シュレーバー』の記述に則って別の言い方をすれば「原抑圧された欲動の回帰」だ)。だがーー僕の知る限りーー少なくとも日本のドゥルーズ研究者でこれを取り上げている者はいまだゼロだね。で、どうして連中を馬鹿にせずにいられるってわけかい? ………………
|
現代ラカン派が2000年前後からようやく鮮明化させるようになった潜在的対象としての固着を、ドゥルーズは既に1960年代後半に事実上示してるんだけどな。 |
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
20世紀後半の最も優れた批評家ジャン=ピエール・リシャールーー敢えてそう言うがーー、彼のマラルメ分析だって「固着の反復」分析に他ならない。
プルーストにも《記憶の固着[la fixité du souvenir]》(「見出された時」)という表現があるが、あの長大な『失われた時を求めて』自体が、失われた時の記憶、その記憶の固着の回帰の話と言ってもいいぐらいだ。
ニーチェの永遠回帰だって固着の回帰だよ。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己の典型的出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
常に回帰する出来事は永遠回帰する身体の出来事に他ならず固着の回帰だ。 |
身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01) |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
要するに身体の出来事の回帰、享楽の固着の永遠回帰だ。 |
享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
ドゥルーズが『差異と反復』で、フロイトの反復強迫と、ニーチェの永遠回帰、プルーストの無意志的記憶の回帰を結びつけている理由はここにある。肝腎なのは『差異と反復』第2章だ。だがドゥルーズ研究者は最も難解な章だと言って、この章をすっ飛ばしている。連中にとって難解なのは、フロイトはもちろんのこと、ニーチェもプルーストもまともに読んでいないせいだけだ。 |