「群衆と集団の相違」に引き続くが、フロイトの自我理想の定義は次のものだ。
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原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章)
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フロイトは集団心理学の第8章で上のように示した後、次章でこう書いている。
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言語は、個々人相互の同一化に大きく基づいた、集団のなかの相互理解適応にとって重要な役割を担っている。Die Sprache verdanke ihre Bedeutung ihrer Eignung zur gegenseitigen Verständigung in der Herde, auf ihr beruhe zum großen Teil die Identifizierung der Einzelnen miteinander.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)
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この二文を組み合わせれば、言語は自我理想となる。
ラカンの次の二文はこの文脈のなかにある。
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要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](Lacan, S24, 08 Février 1977)
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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つまりは自我理想は言語となる。フロイトラカン観点からは、「人間集団は、言語なる自我理想を通して、お互いの自我において同一化している」とすることができる。
もちろん自我理想を通した同一化はこれだけに限らない。フロイトの思考の原点は、指導者や理念が自我理想でありーー軍隊の司令官やキリスト教を例に出しているーー、さらに憎悪でさえも自我理想として機能する。
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指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)
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ところで「サピア・ウォーフの仮説」というのがある。それぞれの社会は言語的習慣の上に築かれ、別の言語を使っている集団とは現実の世界の見え方が異なるというものだ。
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サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis:人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)
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これは既にニーチェも同様のことを言っている。
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ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。
ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. ](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)
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例えば、この観点からは、日本語集団は英語圏集団とは世界の見え方が違うということになる、特に文法的機能の呪縛によって。もっとも同じ日本人でも長年欧米などに居住してその言語や文化に慣れ親しんだ者たちは、世界を一般の日本人とは別の目で眺めるようになっている可能性が十分にある。
逆に言えば、日本語がひどく特殊な言語ということがある。
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「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言している〔・・・〕。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)
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いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)
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日本語文法が反映しているのは、世界の時間的構造、過去・現在・未来に分割された時間軸上にすべての出来事を位置づける世界秩序ではなくて、話し手の出来事に対する反応、命題の確からしさの程度ということになろう。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)
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この二者関係言語を常時使用している集団は、此岸的=日常的現実的に限定される特殊性をもっているというのが加藤周一の日本文化論だ。
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日本文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的=日常的現実的であったし、また今もそうである。(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」『日本文化のかくれた形』所収、2004年)
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加藤周一は別に《具体的・非体系的・感情的(非抽象的・非体系的・非理性的)》[参照]や《「今=ここ」文化》[参照]ともしている。
・・・だろうね、この「いまここ文化」は必ずしも日本語使用だけが原因ではないにしろ。
もっと一般的に言えば、言語はメガネであり、特に一般の日本人は、日本語文法という「特殊なメガネ」をかけて世界を眺めている、ということが言える。
めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕 | われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5) |
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