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2021年4月3日土曜日

「いまここ」ムラビト文化

デュピュイの「プロジェクトの時間」というのは、もともと日本人には無理だよ。無理を承知であのように記したのさ。


加藤周一は日本のムラ社会構造を批判し続けた。


日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』)



別の言い方をすれば「いまここ」文化批判だ。


日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。


そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。

また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。


こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



このたぐいの日本文化論は加藤周一だけでなく数多くのヴァリエーションがある。➡︎「風をみながら絶えず舵を切るほかはない日本住民」。


風をみながらアッチへふらふらコッチにふらふらするのは、理念なき日本の宿命だ。だから財政巨額赤字➡︎財政破綻の道は、ほうっておくしかないのさ。実際は、「いまここ」にある福祉制度が近未来にも続くと思い込むおバカにだけはなるなよ、という最低限のメッセージだけだ。


加藤周一曰くの《「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない》の裏には、もちろん次の批判がある。



「春秋二義戦ナシ」とは孟子の言葉である。日本国の十五年戦争、南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで―を冒したことは、いうまでもない。そういうことのすべてが、いまからおよそ半世紀まえにおこった。 いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない、今日の問題である。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんな若い日本人も免れることはできない。かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面と対決しない限り、またそうすることによって 再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しない限り。たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別...。(加藤周一『夕陽妄語2』1992-2000)


生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと(個人)には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(加藤周一「今日も残る戦争責任」『加藤周一 戦後を語る』所収)



ツイッターを少し垣間見るだけで「嫌中嫌韓」のたぐいの「いまここ」にのみ生きるムラビトたちがトンデモ発言を繰り返してるからな。中韓等に土足で上がりこんでシタイ放題をした戦前の文化は完全に存続しているね。


ツイッター自体がファシスト装置のアスペクトがありあれらキャベツ頭ムラがいっそう続出するんだろうが。


あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なく強いるものだからである。


La langue, comme performance de tout langage, n’est ni réactionnaire ni progressiste; elle est tout simplement fasciste; car le fascisme, ce n’est pas d’empêcher de dire, c’est d’obliger à dire.(ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」1977年『文学の記号学』所収)




蚊居肢ブログでネトサヨーーあるいはもっと一般化してリベサヨーーを批判することがあっても、ネトウヨ諸君は誤解なきよう。もし飲み屋などで隣の席に座っていたらキミたちの厚顔無恥ぶりには3秒も我慢できずすぐさま席を立つだろう。ネトウヨ村というのは《南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで》等を否定するムラビトの集まりらしいからな。ほかにも創氏改名否定とかいくらでもあるさ、あのキャベツムラの住人がお好きらしいことは。他方、リベサヨカボチャ頭なら3分、場合によっては30分ぐらいほどはもつよ。


要するにこのブログはネトウヨ諸君にはまったく読まれたくないんだな、わかるかい?


きみたちには何を言ってもムダだというのはとっくのむかしからわかってるからな。キャベツ東風だというのがね。


聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)