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2023年7月8日土曜日

きみに音楽を愛しているとは言わせない

 

ははあ・・・


◼️市田良彦と鈴木創士 第十六書簡 

So-siくん、

ひょっとして君は、言語がなくても音楽はある、と考えているのだろうか。「音楽を聞いたことがない状態を想像できない」とはそういうこと?「我々の聴覚の体系」に入り込んだ「隠された歌」は言語ではない──〈まだ〉あるいは〈本性的に〉──と言いたい? 僕としてはそういう「歌」があるなら、それはすでに立派な言語ではないかと問いたい。歌なんだから。僕がここ数回の書簡で書いてきたことは、言語と音楽は同時的なもの、〈双子〉のようなものであろう、ということに尽きる。一方を欠いて他方は存在も存続もしえない互いの〈分身〉と言い換えてもいい。そして、にもかかわらず我々は両方の〈分裂〉を生きている。そのことをあの寓話は見事に言い当てているように思えた。すなわち、聞こえた音から音楽を寓話的に、つまり想像上の操作により、消去しても言語は残る。何かを語っている、ということが。その何かに了解可能、再言語化可能な意味があるかどうかは二次的な問題。……




で、こうか。


良彦さま、

我々の聴覚体系に入り込んだ「隠された歌」はまだ言語ではないかもしれない。この歌は僕にとって「言葉」を伴っているのか、あるいは「言葉」そのものであるのかどうかいまだ確信がもてないと僕は言った。演奏中のミュージシャンとしては、とりわけそう言わざるを得ない。「言葉」以前に「音」がある? 世界に満ちている音の無限の連鎖は、世界が過ぎ去り、消え失せることを連続的に構成するが、これは世界の歴史がその成り立ちにおいて示唆しているような「言葉」のうちにあるのだろうか。一方、それに対して、言葉と音楽は同時的なものであり、分身的関係にあり、そのような「歌」があるとするなら、すでにそれは立派な「言語」である、と君は言う。そしてこの双子にはもう一人分身がいて、それはアルトーが思考を開始した「思考の不可能性」であり、「思考の中心にあいた空虚」、「穴」である、と。そして何かを語るという可能性は「狂人である」ことと同時的である、と君は言う。


君の言いたいことは全部わかるよ。反論のしようがない。君の言いたいことを全部認めた上で、しかしその同時性においてフーコーは、「狂人である」こと、思考の不可能性から思考を開始し、そこからしか言葉を語ることができない、あるいはそこにしか言葉の実質とその営為を見つけられない状態を、「無為」あるいは「作品の不在」とも呼んでいた。そうであれば、「言葉」は「作品の不在」と同時的なのだろうか。だけど正直に言えば、このことは僕にとってずっと解決できていないし、いまだ答えを出せていない問題としてあるんだ。……




詩人音楽家はチョロい哲学者ーーシツレイ!ーーに《君の言いたいことは全部わかるよ》なんて言ってほしくないね。音楽が言語の領域にとどまるわけないじゃないか。


蓮實重彦が「あなたに映画を愛しているとは言わせない」と言ったように、「きみに音楽を愛しているとは言わせない」と返さないとな。


ニーチェはこう言ってるよ。


言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもののあいだの虹、仮象の橋ではなかろうか。


Wie lieblich ist es, dass Worte und Töne da sind: sind nicht Worte und Töne Regenbogen und Schein-Brücken zwischen Ewig-Geschiedenem?  〔・・・〕


モノに名と音調が贈られるのは、人間がそれらのモノから喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいのモノの上を舞って行くのだ。 


Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年)



音調ってなんだい? 肉体だよ



おそらく彼(ゴッホ)以前においては、不幸なニーチェだけが魂を脱がせ、肉体と魂を解放し、精神のごまかしの彼岸にある人間の肉体をむき出しにするこの眼差しを持っていた。

seul peut-être avant lui  (Van Gogh) le malheureux Nietzsche eut ce regard à déshabiller l’âme, à délivrer le corps et l’âme, à mettre à nu le corps de l’homme, hors des subterfuges de l’esprit. (アルトー『ヴァン・ゴッホ―社会が自殺させた者』ANTONIN ARTAUD, VAN GOGH, LE SUICIDÉ DE LA SOCIÉTÉ )


「わたしは肉体であり魂である」ーーそう幼子は言う[»Leib bin ich und Seele« – so redet das Kind.]。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。


さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。

自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と[Leib bin ich ganz und gar, und nichts außerdem; Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.]

肉体はひとつの大きい理性である[Der Leib ist eine große Vernunft]。一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。


わたしの兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である[Werkzeug deines Leibes ist auch deine kleine Vernunft, mein Bruder, die du »Geist« nennst, ein kleines Werk- und Spielzeug deiner großen Vernunft.]


君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それ「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。[»Ich« sagst du und bist stolz auf dies Wort. Aber das Größere ist, woran du nicht glauben willst – dein Leib und seine große Vernunft: die sagt nicht Ich, aber tut Ich.]

感覚と認識、それは、けっしてそれ自体が目的とならない。だが、感覚と精神は、自分たちがいっさいのことの目的だと、君を説得しようとする。それほどにこの両者、感覚と精神は虚栄心と思い上がったうぬぼれに充ちている[Was der Sinn fühlt, was der Geist erkennt, das hat niemals in sich sein Ende. Aber Sinn und Geist möchten dich überreden, sie seien aller Dinge Ende: so eitel sind sie.]


だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。この「本然のおのれ」は、感覚の目をもってもたずねる、精神の耳をもっても聞くのである[Werk- und Spielzeuge sind Sinn und Geist: hinter ihnen liegt noch das Selbst. Das Selbst sucht auch mit den Augen der Sinne, es horcht auch mit den Ohren des Geistes.]


こうして、この「本来のおのれ」は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして「我」の支配者でもある[Immer horcht das Selbst und sucht: es vergleicht, bezwingt, erobert, zerstört. Es herrscht und ist auch des Ichs Beherrscher.]


わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、それが「本来のおのれ」である。 君の肉体のなかに、 かれが生んでいる。君の肉体がかれである[Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser – der heißt Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」Von den Verächtern des Leibes 、1883年)




ケージはこう言ってるよ、


かつて音楽は、まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。音楽を書けば、聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。私は反対に、音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています。ソルフェージュはまさに、音が発せられる以前に音を聞き取るようにする訓練なのです……。この訓練を受けると、人間は聾になるだけです。他のあれこれとかの音ではなく、決まったこの音あの音だけを受け入れられるよう訓練される。ソルフェージュを練習することは、まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。ですから〈具体音の〉ソルフェージュはありえない。あらゆるソルフェージュは必然的に、定義からして〈抽象的〉ですよ……。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』John Cage, Pour les oiseaux , 1976)



ソルフェージュはたしかに言語だ、だが具体音ってなんだい? 究極的には、ケージが無響室に入って聴いた肉体の音だよ。


谷川俊太郎はこう言ってるよ、


僕は、詩がなくても生きていけるんですよ。でも音楽がなかったら生きていけない人間なんです。それは子供の頃からだいたいそうで。とくに思春期以後、自分の感性がちょっと拓けてきたときに、まず感動したのはクラシックの音楽ですね。で、そのずっと後になって、詩の魅力っていうのに気づいたんじゃないかな。(谷川俊太郎『声が世界を抱きしめます』2018年)


結局、音楽がなかったら生きていけない人間となくてもなんとかなる人間の対話なんて話が噛み合わないにきまっている。


あと絶対音感と相対音感の相違の話がある。後者はたしかに言語だ。でも絶対音感は?


中井久夫はこう言ってるよ、


私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyとを挙げた。


もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。〔・・・〕


私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。〔・・・〕

私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。


絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。


私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。

ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである〔・・・〕


音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。


視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論」2012年『徴候・記憶・外傷』所収)



この非文脈的な自閉症的シニフィアンとは、ラカンにおいて現実界の享楽のシニフィアンであり、ここに主体の故郷がある。


享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste]   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)

自閉症は主体の故郷の地位にある[l'autisme était le statut natif du sujet](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)



で、この自閉症的シニフィアンは、身体の上への欲動の刻印(フロイトの「欲動の固着」)であり、その代表的なものをラカンはララングと呼んだ[参照]。



ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外のものであり、したがって意味外にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne),(Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

ララングは、言語の構造から逃れ去るシニフィアンである。lalangue qui est le signifiant, dépouillé de la structure de langage (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009)



このララングは現実界の症状サントームに関わる。


サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)


これをラカン派ではS2なきS1(S1 sans S2)というが、これこそフロイトの固着のことであり、言語外のものだ(このS2なきS1は、私がしばしば触れている穴のシニフィアンS(Ⱥ)と等価)。


ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準にある。この反復的享楽は、一者のシニフィアン ・S1とのみ関係がある。

ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. 


その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自己享楽に他ならない。

Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2. Et ce qui fait fonction de S2 en la matière, ce qui fait fonction d'Autre de ce S1, c'est le corps lui-même. 

(J.-A. Miller, L'Être et l'Un, 23/03/2011)

S2に付着していないS1(S2なきS1[S1 sans S2])… これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2…précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



この身体の上への刻印としてのS2なきS1(S1 sans S2)までをも「言語」といいたいのなら別だが、固着はフロイトラカンの定義上、言語の法の外部にあるもの。


固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)



というわけで理知の人市田はチョロすぎるんだよ、



思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである[La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser»]

哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète. ] (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



かつて「So-siくん」はツイッターで、さる東大の学者のおバカな反応に「エラっそうに!」と返していたが、なんで今回はそう言わないんだろ? いくら友人関係にあるったって、限度を超えているよ、あの「良彦さま」の物言いは。


そもそも音楽どころか詩だって言語外の相があるのは、So-siはよく知ってる筈だと思うがね。


詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps s'exprime](Lacan, S24, 19 Avril 1977)

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.]  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


それとも書簡の話を長持ちさせるためにわざと知らないふりしてんのかね、ふつうに考えたらソウとしかおもえないね