前回から引き続くが、誰もが知っているように、人間は「言語と身体」で成り立っている。
最も簡単に言ってしまえば、この「言語と身体」が、フロイトの「自我とエス」だよ。巷間の哲学者やら社会学者やらは、そのほとんどが自我心理学のレベルで物を言っている。身体のことを忘れている。
フロイトはこう言っている。
自我はエスの組織化された部分である[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es. ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年) |
ここでの組織化は事実上、言語化ということであり、自我は言語の審級にある。 |
フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97) |
大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98) |
他方、エスは欲動の身体であり、フロイトはこれを、異者としての身体[Fremdkörper]と呼んだ(邦訳では「異物」と訳されてきた)。 |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年) |
もうひとつ確認しておこう。 |
人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残される。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年) |
何ものかがエスの核に置き残されるとあるが、これが異者としての身体である。 |
異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
ラカンの享楽とはこの異者としての身体に他ならない。 |
われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
現実界のなかの異者概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
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ニーチェは『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレ「酔歌」で次のように歌った。 |
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
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人間のあらゆる行為はこのエスの残滓(置き残し)があるんじゃないかね、ーー《常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. ] 》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
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フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
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享楽は、残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
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異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
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ラカンの主体はこの異者に他ならない、《この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté]》 (Lacan, S16, 14 Mai 1969)。➡︎《対象aは主体自体である[a ≡ $]le petit a est le sujet lui-même》( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)。 もちろんここでの主体は原主体としての斜線を引かれた主体$である、つまり斜線を引かれた主体が異者だ($ ≡ Fremdkörper)。
このエスの欲動蠢動としての「異者としての身体」(享楽の主体)に、人はみな支配されているというのが、フロイト・ラカンであり、かつまたニーチェである。支配しているのは欲望の主体ではない、欲望は享楽に対する防衛に過ぎない。 |
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ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten. 〔・・・〕 私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。 Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es. |
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グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。 Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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ニーチェは「さすらいびと」で異郷にあったおのれの回帰を歌っているが、この異郷にあったおのれがエスの欲動の蠢きとしての異者としての身体にほかならない。 |
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偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。 Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。 Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年 |
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ーー《異者としての身体は内界にある自我の異郷部分である[Fremdkörper…das ichfremde Stück der Innenwelt ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
エスがあったところに、自我は到らなければならない [Wo Es war, soll Ich werden](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年) |
ラカンは次のように言った。 |
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20, 15 Mai 1973) |
私は私で、穴だろ? [Je suis ce que je suis, ça c'est un trou, non ? ].(Lacan, S22, 15 Avril 1975) |
これは、私は欲動の身体だと言っているのであり、つまり先に示したように「異者としての身体=エスの身体」のことを言っている。 |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
もう一度掲げるが、ある意味でラカンにおいて、フロイトの次の文が核だよ、ーー《エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] 》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)。
数多くのラカンの発言はこのフロイト文の言い直しのところがある。例えばラカンは法なき現実界と言った、《私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi. Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].》 (Lacan, S23, 13 Avril 1976) 。これ自体、「エスの欲動蠢動=自我の治外法権=異者としての身体」に相当する。
あるいはーー、
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
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現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](J.-A. Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016) |
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ーーこのミレールの注釈自体、フロイトの異者身体のことを言っている、《異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) 認めることだね、自らのなかには異者がいることを。
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