このブログを検索

2023年8月13日日曜日

そもそもファクトチェックって何だろう


ファクトチェックセンター編集長古田大輔による原口一博議員取材へのコメント。



➡︎動画


ーーだな、FDA、WHO、CDCなどの公的機関をファクトの依拠としてしまった時点で、古田大輔の完敗だよ、まったく話にならない。

これはコロナやワクチンの話に限らない。宇露戦争においても同様。


ミアシャイマーは《大国は自分たちの利益になるようにルールを作成する。しかし、そのルールが支配国家の重大な利益と一致しない場合、支配国家はそのルールを無視するか書き換えてしまう》と言っているが、これこそ真の「ファクト」だ。



◼️失敗する運命

リベラルな国際秩序の興亡. ジョン・J・ミアシャイマー 2019年

Bound to Fail

The Rise and Fall of the Liberal International Order. John J. Mearsheimer 2019

「秩序」とは、加盟国間の相互作用を管理するのに役立つ国際機関の組織的なグループのことである。秩序には必ずしも世界のすべての国が含まれるわけではないため、秩序は加盟国が非加盟国に対処する助けにもなる。さらに、秩序は地域的または世界的な広がりを持つ制度で構成されることもある。大国は秩序を創造し、管理する。秩序の構成要素である国際制度は、事実上、大国が考案し、従うことに合意したルールである。ルールは許容される行動と許容されない行動を規定する。当然のことながら、大国は自分たちの利益になるようにルールを作成する。しかし、そのルールが支配国家の重大な利益と一致しない場合、支配国家はそのルールを無視するか書き換えてしまう。


An “order” is an organized group of international institutions that help govern the interactions among the member states. Orders can also help member states deal with nonmembers, because an order does not necessarily include every country in the world. Furthermore, orders can comprise institutions that have a regional or a global scope. Great powers create and manage orders. International institutions, which are the building blocks of orders, are effectively rules that the great powers devise and agree to follow, because they be-lieve that obeying those rules is in their interest. The rules prescribe acceptable kinds of behavior and proscribe unacceptable forms of behavior. Unsurprisingly, the great powers write those rules to suit their own interests. But when the rules do not accord with the vital interests of the dominant states, those same states either ignore them or rewrite them. 


たとえば、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、2003年のイラク戦争前に何度も、たとえアメリカの侵攻が国際法に違反したとしても、「アメリカは、わが国の安全を確保するために必要なことは何でもする。・・・私は、事の発生を待ったり、危険が近づくのを座視したりはしない」と言った。


秩序には、北大西洋条約機構(NATO)、核拡散防止条約(NPT)、ワルシャワ条約などの安全保障機構や、国際通貨基金(IMF)、北米自由貿易協定、経済協力開発機構、世界銀行などの経済機構など、さまざまな種類の機関が含まれる。また、気候変動に取り組むパリ協定のような環境を扱う機関や、欧州連合(EU)、国際連盟、国際連合(UN)のような多面的な機関も含まれる。


For example, President George W. Bush emphasized on numerous occasions before the 2003 Iraq War that even if a U.S. invasion violated international law, “America will do what is necessary to ensure our nation's security . . . I will not wait on events, while dangers gather.”5


An order can contain different kinds of institutions, including security insti-tutions such as the North Atlantic Treaty Organization (NATO), the Nuclear Non-Proliferation Treaty (NPT), or the Warsaw Pact, as well as economic insti-tutions such as the International Monetary Fund (IMF), the North American Free Trade Agreement, the Organization for Economic Co-operation and Development, and the World Bank. It can also include institutions that deal with the environment, such as the Paris Agreement to tackle climate change, and more multifaceted institutions such as the European Union (EU), the League of Nations, and the United Nations (UN).



ここでミアシャイマーが言っているのは、公的機関と呼ばれる組織は、事実上、西側支配国家の利益を守るための下請け機関に過ぎないということだ。もちろん彼の言っていることを全面的に信用する必要はまったくないが、現在、「ファクトチェック」をするならこの問いから始めなければならない。


……………


この際、しばしば引用してきた「一般論」のエキスも再掲しておこう。


私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) )


われわれの意識は、いかなる形で調整・単純化・図式化・解釈されているのか?


人はみなメガネをかけて事物を見ている。


めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕


われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5)


この概念装置としてのメガネはイデオロギーと言い換えてもよいだろう。ファクトはイデオロギーである。


ニーチェは《事実はない。あるのは解釈のみ》と言っている。

現象[Phänomenen]に立ちどまったままで《あるのはただ事実のみ [es giebt nur Thatsachen]》と主張する実証主義[Positivismus] に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実はなく、あるのはただ解釈のみ[nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen] と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。〔・・・〕


総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義」。

[Soweit überhaupt das Wort »Erkenntnis« Sinn hat, ist die Welt erkennbar: aber sie ist anders deutbar, sie hat keinen Sinn hinter sich, sondern unzählige Sinne. – »Perspektivismus.«](ニーチェ『力への意志』1886/87)


これは一般にはいささか極論に思えるかも知れないが、ほとんどの場合、そう言いうるのは間違いない。というのは、言語自体メガネ、つまり概念装置なのだから。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。

ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある[der Bann bestimmter grammatischer Funktionen ist im letzten Grunde der Bann physiologischer Werthurtheile und Rasse-Bedingungen. ](ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)

サピアウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis:人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)



こういった言語についての考え方は、レヴィ=ストロースの『野生の思考』の冒頭にもある。この書は次の文で始まっている、《動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。ところが、「未開人」の抽象的思考の不適合性と称されるものの例としてこのようなケースを挙げるとき、まず第一に人びとは、抽象語の豊富さはただ文明語のみの特徴でないことを証明する他の例がいろいろあることを無視してきた。……》。

例えば、日本語なら水と湯の区分があるが、英語の"water"概念はない。一人称単数代名詞を表す多様な表現がある日本語と英語の"I"は異なる。等々。日本語使いと英語使いは、ニーチェ曰くの「世界を異なった目で眺めている」筈である。


…………


以上に記したことを、いくらか別の視点から言えば、➡︎エビデンスはプロパガンダである」