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2023年8月23日水曜日

ワルシャワの怒り

 

MANPYO氏のこのツイートはとっても勉強になるね


DULLES N. MANPYO

@iDulles

バルトから黒海まで Aug 23, 2023

〔・・・〕

「キエフによる発言(現在は協力関係にあるが、事変後は競争関係になる)へのワルシャワの怒りが熄むない。そして事態をややこしくさせた。一方では対バンデライナの強力な支援国であると同時に、一方では復讐の怒りを抑えきれない隣国という大矛盾を開放させたからだ。精確にはこのコアビタシオンは事変とは無関係に、ポーランドが抱えが封印しようと努めてきた感情であって、理性的であろうと努めようとするほど、抑えきれない感情が上回っては、内外材料を用いて宥めてきたものであり、この心理的葛藤が、ポーランドの内外政策の不一致さ、非体系的なちぐはぐさとなって私たちの目撃することになってきた。この感情の開放はバンデライナによる居丈高な、援助を受ける身の低姿勢とは真逆の高慢さが、農業国ポーランドを爆発させたことにある。またポーランドに身を寄せたウクライナ人たちの持てなしを当然視する民族的気位と被害者自意識の強要に加え、バンデラを礼賛する無知蒙昧な民族主義運動をあろうことかポーランドで堂々と行っていた当初から慷慨は燻り続けていた。欧州の法度、欧盟成立の必須条件について覚書に、夫々が歴史について話してはならない。夫々が話し出すなら異なることを話さざるを得なくなるからだと以前に記したように、この方度を無思慮に破ったのがバンデライナだった。これによって、仏独、独波と異なることを話し始め出した。欧盟に是が非でも入りたい国がそのフレームを破壊しかねないというのだから皮肉な話しだが、欧盟自体が極めて脆弱な上に成立していることをバンデライナが証明して見せた。しかもポーランドとウクライナとはその長い関係において輻輳・矛盾・敵対・呪詛の関係を繰り返していたこと、それは即ち両民族の血肉に流れ刻まれてきたことを考えるなら、ワルシャワによる対キエフ支援は異色とも呼ぶ可きかも察れない。ポーランドが東欧における絶頂期に達した12世紀末から17世紀末、ポーランドがロシア帝国一部となった18世紀から20世紀初め、そしてポーランドが独立する20世紀第一四半期から現在まで。大体にポーランドと現ウクライナの関係は臣従であったが、キエフの地域的重要さが薄れ、地域の版図は急速に流動化していく。現在のウクライナ、モルダヴィア、白ロシアのいちぶrに、ガリシア・ヴォリニア公国がうまれ、その名をロシア王国と呼ばれる。15世紀半ばにポーランドはリトアニア王国の支配下に、そしてポーランド・リトアニア合邦が成立する。以後、東からロシア帝国の実力が高まると共に、ポーランド内部の諸矛盾が生じて、内憂外患のポーランドが弱体化、徐々にその存在は埋没し、18世紀後半に却々分割が始まり、その邦土はプロイセン、オーストリア、ハンガリー、ロシアによって分割された。この分割の過程で、ポーランド人の大半はロシア(含ウクライナ地域)に移住したため、これら地域では所謂〝波禍〟の感情が生じることとなり、19世紀のポーランド問題まで煮詰まっていく。 この期間に双方観は形成されていく。第一次大戦後、ポーランドは再び独立国として復活するが、この独立ポーランドが、それ以前の関係のなかで生じた国家であること、名は同じでもその中身は似ても似つかぬ形成の末のかたちであったことは強調しておきたい。ポーランド・ウクライナ戦役、同連合の形成の第一次世界大戦後、ポーランド人とウクライナ人との関係は複雑であり矛盾していた。ポーランド独立、ソ連邦ウクライナとなってもこの複雑で矛盾した感情の関係は変わらなかった。独立ポーランドはその国家存立の脅威を独と露とし、これらに対抗するため、東欧地域の連合国家を樹立する構想を打ち出す。〝バルトから黒海まで我がポーランド〟という合言葉で報られるこの構想は、防禦という名の拡張意志であり、1930年代末の緊張へと最悪の事件へと進んでいった。バンデライナ人によるポーランド住民大虐殺、独敗戦後の1947年、ポーランド国内のバンデライナ人たちを報復追放した双つの決定的出来事は、彼らの関係を平穏なものとさせない」 -0-



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以前、ウクライナ分割案地図を拾ったことがあるけどさ(参照





拾った当時は、これはいくらなんでも極端だと思ったけど・・・