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2023年8月28日月曜日

権威なき自由はない、あるいは「権力と権威」の相違

 


私はトランプのファンでも何でもないが、最近の世代は基本的な誤認があるんだよな、権威について。

以下、過去に引用してきたものからいくつかを列挙する。

◼️権威なき自由はない

権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する[Authority implies an obedience in which men retain their freedom」(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)



◼️括弧付きの「自由」ーー偽の自由ーーは無責任の生であり、「権威」を嫌い世界を解体させる。

今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこそ「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・

Man lebt für heute, man lebt sehr geschwind – man lebt sehr unverantwortlich: dies gerade nennt man »Freiheit«. Was aus Institutionen Institutionen macht, wird verachtet, gehaßt, abgelehnt: man glaubt sich in der Gefahr einer neuen Sklaverei, wo das Wort »Autorität« auch nur laut wird. Soweit geht die décadence im Wert-Instinkte unsrer Politiker, unsrer politischen Parteien: sie ziehn instinktiv vor, was auflöst, was das Ende beschleunigt... (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第39節『偶像の黄昏』所収、1888年)



…………………




◼️権力と権威の相違ーー二者関係と三者関係

重要なことは、権力と権威[power and authority]の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

 It is important to try to understand the difference between power and authority. From a lacanian point of view, power always concerns a dual relationship, meaning: me or the other . This supposedly equal relationship amounts to a bitter competition in which one of the two has to win over the other. Authority on the other hand, always concerns a triangular relationship, meaning me and the other through the intermediary of a third party.

(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999)


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。a dualistic logic where there is a choice of either me or the other, and thus points to the fact that the oedipal situation has not been worked through symbolically. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)



◼️家父長制の崩壊(権威の喪失)による最悪の時代への突入

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)



とはいえ家父長制打倒のフェミニズム運動等を難詰するより先に、ドゥルーズ&ガタリの「アンチオイディプスの先には自由がある」などという二十世紀後半の思想界における最悪の誤謬を十全に批判しないとな。



ドゥルーズとガタリの書(「アンチオイディプス」)で最も説得力があるのは、パラノイア的領土化と分裂病的非領土化を対比している点だと言える。彼らが犯した唯一の過ちは、それを文学化し、分裂病的断片化が自由の世界であると想像したことだ。 Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


私がドゥルーズ研究者を徹底的に馬鹿にしている理由のひとつは、いまだ連中のうちの誰もがこの「最悪の誤謬」を鮮明化してないことだよ。ほかにも理由はあるがね。



権威なき権力の時代は「差別の時代」であるのはもはや歴然としているにも関わらず、ドゥルーズ研究者がいまだ黙然としてるってのはドウシヨウモナイよ。


差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年『アリアドネからの糸』所収)


学園紛争を契機にしたエディプス的父の失墜後、世界はどうなって21世紀はそれが極まっているのは、誰もが知っている。


父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)

レイシズム勃興の予言[prophétiser la montée du racisme](Lacan, AE534, 1973)


あるいは「恥なき時代」ーー、

もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[ plus vous serez ignoble mieux ça ira] (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

文化は恥の設置に結びついている[la civilisation a partie liée avec l'instauration de la honte.]〔・・・〕ラカンが『精神分析の裏面』(1970年)の最後の講義で述べた「もはや恥はない」という診断。これは次のように翻案できる。私たちは、恥を運ぶものとしての大他者の眼差しの消失の時代にあると[au diagnostic de Lacan qui figure dans cette dernière leçon du Séminaire de L'envers : «Il n'y a plus de honte». Cela se traduit par ceci : nous sommes à l'époque d'une éclipse du regard de l'Autre comme porteur de la honte.](J.-A. MILLER, Note sur la honte, 2003年)


大他者の眼差しとはもちろんエディプス的父の眼差し、あるいは父の名の眼差しのこと。ーー《フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien]》(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019


もっともラカン派は、支配の論理に陥りがちな父の名の復権をいっているわけではない、だが三者関係を支える父の機能としての「権威」は必ず必要である。


これが、ラカンが次のように言っている意味だ。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで[le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)







実はこれらの洞察は、フロイトの『集団心理学と自我の分析』(1921年)にほとんどすべてある。だがその具体的内容については長くなるのでここでは触れないでおき、核心図だけ掲げておく。




この図は、外的対象を自我理想(エディプス的父)として各自我が取り入れ、自我が「父」を基盤として互いに投影し合い、自我のあいだでの二項関係が三項関係に変わるということを示している(二者関係とは自我がどれだけいようと、父の支えがなければすべて二者関係である)。そして「父」とは三項として機能すれば何でもよい。理想でも目標でも。例えば夫婦という二者関係において「父」として機能するのは、ときに彼らの「子供」でありうる。



三項の支えがなければ、二者とは「拷問関係」であるのは既にボードレールが示している。


愛は拷問または外科手術にとても似ている[l'amour ressemblait fort à une torture ou à une opération chirurgicale]ということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。だがこの考えは、最も過酷な形で展開しうる。たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは死刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である[ c'est l'opérateur ou le bourreau ; l’autre, c'est le sujet, la victime.](ボードレール「火箭 Fusées」)