前回掲げた、不変の個性刻印という固着の反復強迫(永遠回帰)の事例としてのフロイト文の一部をまず再掲する。 |
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あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいる[Personen, bei denen jede menschliche Beziehung den gleichen Ausgang nimmt]。 かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男達。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人達、等々。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
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こういったことは人はみなあるんじゃないかね。例えばヴァリエーションとしてーーここでは愛に特化して言うがーー、女をやたらにかつぎあげ、一定期間がすぎると他の女に鞍替えする男とか、どんな男と関係したって裏切られて愛を失う女とかね。 |
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安吾の次の話も《あらゆる人間関係がつねに同一の結果に終わるような人》の線で読むことができるんじゃないか? |
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母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。 私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。〔・・・〕 |
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ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう! 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」1935年) |
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安吾は母への強い固着があったに相違ないのでね[参照]。 |
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母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
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そこのキミなんかはまずは父への固着だろうよ、 |
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強い父への固着をもった少女の夢[Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung,](フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年) |
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そもそも愛自体が固着の反復、つまり不変の個性刻印の永遠回帰なんだよ、少なくともフロイトラカン派においては。 |
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忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。[N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour] (Lacan, S9, 21 Mars 1962) |
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愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年) |
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愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである[L'amour est donc toujours répétition, (…) Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour.] (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
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