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2023年9月14日木曜日

熊野原風景

 この二週間のあいだ中上健次の書を三冊、何十年ぶりかにーーちょっとマガオでーー読んだのだが、今回は、最初に読んだルポルタージュ『紀州木の国・根の国物語』(1977年)を扇の要にようにして、主に父をめぐる物語「枯木灘』(1977年)、次に、こちらはダイレクトに母の物語『鳳仙花』(1980年)という具合に。『紀州』と『鳳仙花』とのあいだの1978年に新宮市の路地の解体が始まったそうで、以前はまったくつまらなかった『鳳仙花』が、若い母への愛惜だけでなく、路地への愛惜として読むことができ、さらには『枯木灘』で悪の権化と書かれた父を救おうとする叙述も『鳳仙花』には垣間見られ、なんだかグッときたね。とはいえ、二週間漬け程度で何やら言うつもりもなく、あまたの評論文もあることだし(何を言っているのかほとんど知らないが)、当面言えるのは紀州ってのは凄いとこってだけだな、ーー《隠国・熊野は何やら熱がある。人を破壊する。山を歩いていると山は美しすぎる。山の突出した岩肌は、ごつごつし、どんなマスラヲも耐えられなくなる。 人の力などしれたものだ、そう思う。》(『紀州』)ーーだよ、知らない土地ながらそれをヒシヒシと感じさせてくれる中上の語りだね。さらに中上健次を読んでると、例えば安吾よりもずっと昔の話が書かれているって感じがしてくるよ、そのせいもあって泉鏡花の『高野聖』を読み返しちゃったね。それに紀州の風景写真なんかをネット上で拾って眺めたりさ。




熊野本宮大社旧社地「大斎原」だが、ボクはこういった風景にひどく弱いんだな、この絵は原風景のひとつでね。三歳のときの幼稚園初登園の風景が、鳥居なしにしろ、こんな感じだったな、ところでこの鳥居は新しいらしいね。




それにしても風景とのバランスがとってもいいな。


次のは中上健次の母の故郷古座の「雑魚の滝」。



こういった碧の滝壺っのは女にとっても合うね、ーー《女の壺は空虚かい、満湖[plein]かい? あれは何も欠けてないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein? …Il n'y manque rien. ]》 (Lacan, S10, 20 Mars 1963 ーー深い森の奥のニンフ



この画像は中上健次よりも安吾の『木々の精、谷の精』を思い出すね、

日本の滝百選なんてのも見ちゃったよ



不幸にもひとつしか訪れたことがないな、故郷の町近く、といっても小一時間かかるが、阿寺の七滝しか。