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2021年6月19日土曜日

深い森の奥のニンフ


二つのドラの夢は、完全に透明である。われわれはこういう他ない、「女性器とは何なの?」 Les deux rêves de Dora sont absolument transparents. On ne parle que de cela : « Qu'est-ce qu'un organe féminin ? ».  (Lacan, S3, 14 Mars 1956)


症例ドラの二つの夢は、宝石箱[Schmuckkästchen]と深い森の奥のニンフ[die »Nymphen«  im Hintergrunde des »dichten Waldes« ]の夢だ。


ドラは自問し、「女とは何なの?」と問い彷徨ったとき、この問いの唯一の意味は、女性器自体を象徴化する試みである。Qu'est-ce qui se passe en effet quand Dora se trouve poser sa question, s'interroger sur « Qu'est-ce qu'une femme ? » Cela a le sens - et pas un autre - d'une interrogation, une tentative de symboliser l'organe féminin comme tel.   (Lacan, S3, 21 Mars 1956)


この名高いドラの話と前回掲げた満湖の話を並記するのはいくらか微妙なところがあるのだがーーラカンはセミネールⅩⅠで二つの欠如[deux manques]

を語っていて、「象徴的欠如+想像的欠如」と「リアルな欠如」(穴)の相違に関係するーー、いまはその説明を端折って、そのままエキス文を再掲しよう。


女の壺は空虚かい、満湖[plein]かい? あれは何も欠けてないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein? …Il n'y manque rien. ] (Lacan, S10, 20 Mars 1963 )

不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)

欠如の欠如が現実界を為す[Le manque du manque fait le réel] (Lacan, AE573, 17 mai 1976)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919)



で、ここで言いたいのは、みなさん実はよく知ってる筈だってことだ、別にフロイトラカンが言わなくたって。


多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)


女の壺が愛の起源だってのは当たり前だよ。じつはそうだろ、そこのお嬢さん? 


だから標準的には、男は対象愛(欲望)類型になり、女は自己愛類型になる。例外はあるにしろさ。


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型にのっとった完全な対象愛は、本来男性の特色をなすものである[Die volle Objektliebe nach dem Anlehnungstypus ist eigentlich für den Mann charakteristisch]〔・・・〕


女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器が発達するために、根源的ナルシシズムの高まりが現われてくるように見える[scheint mit der Pubertätsentwicklung durch die Ausbildung der bis dahin latenten weiblichen Sexualorgane eine Steigerung des ursprünglichen Narzißmus aufzutreten]〔・・・〕

彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


どっかのヘボラカン派みたいに女は関係性を求めるなんて誤魔化したらダメだよ。ああいうのこそ骨抜きラカンによる諸誤解の根だよ。


愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン, S11, 17 Juin 1964)

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,[…]  l'amour c'est le narcissisme  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


さらに過剰な父コンプレクスへの傾向がある種の女性たちにあるのも、ヴァギナ不安が主たる原因じゃないかな。


ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで。the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. . (PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


女たちが男たち以上にパロール享楽(=ファルス享楽)に耽けるのも、ここに主因があるんじゃないかね。


このあたりはいくらか議論の余地があるにせよ、男女両性とも、少なくもセクシャリティに関して「深い森の奥のニンフ」の周りを回ってるってアッタリマエだろ? それを公言するか否かの問題だけだよ。