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2021年6月13日日曜日

女は、耳で考え、言葉で誘惑される

 


さて前回の記述を前提として言うが、どうして解剖学的女性は、男性よりもファルス享楽(言語の享楽)に励むようになるのか。



女が、自然、欲動、身体、ソマティック等々を表わし、他方、男は文化、象徴的なもの、プシュケー(精神)を表わす等々。しかしこれは、日常の経験からも臨床診療からも確められない。


女性のエロティシズムやアイデンティティは、男性よりもはるかに象徴的なものに惹きつけられているようにみえる。聖書が言うように、またそうでなくても、女はそのほとんどが、耳で考え、言葉で誘惑される[Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts. Biblically or not, woman conceives for the most part by the ear and is seduced by words. ]


反対に、何にも介入されない欲動に衝き動かされたセクシャリティ[an unmediated, drive-ridden sexuality]は、ゲイであれストレイトであれ、男性のエロティシズムの特性のようにはるかに思える。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)



女は、耳で考え、言葉で誘惑されるのは、何もラカン派がいわなくても、日常的に観察レヴェルにおいてまがいようがないだろう。



男たちはサイバースペースを孤独な遊戯としての自慰装置として使う傾向が(女たちに比べて)ずっとある。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにだ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとある、サイバースペースを誘惑的コミュニケーションとして使用するために。〔・・・〕女たちは例外なしに言語の領域に浸かり込んでいる[it is women who are immersed in the order of speech without exception.](ジジェク, THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004)



ジャック=アラン・ミレールは、ラカンのアンコールの性別化の式を前提にするともに、1960年の女性のセクシャリティの発言をベースにこう言っている。


男の愛の「フェティッシュ形式 la forme fétichiste」 /女の愛の「被愛妄想形式 la forme érotomaniaque」(ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドラインPropos directifs pour un Congrès sur la sexualité féminine」E733、1960年、摘要)

ラカンの命題においてパロール享楽は明瞭にシニフィアン自体のなかにある。このパロール享楽が特に補填的女性の享楽である。厳密にこの女性の享楽は被愛妄想的享楽である、その対象が話すことを要求するという意味で。[La thèse de Lacan, c'est que la jouissance de la parole, qui est évidemment là dans le signifiant comme tel, est spécialement cette jouissance féminine supplémentaire. C'est exactement la jouissance érotomaniaque, au sens où c'est une jouissance qui nécessite que son objet parle.  ]。


この被愛妄想的享楽に置いて、享楽は愛を通すことが必要である。他方、男性側は、愛を通する必要はない。パロールの享楽を必要としない[C'est en cela que c'est une jouissance qui nécessite qu'on en passe par l'amour, alors que la jouissance côté mâle ne nécessite pas qu'on en passe par l'amour, elle ne nécessite pas la jouissance de la parole]。


フェティッシュの対象は愛の現前を必要としない。女性側では、愛が話すものである限りで、愛を通することが必要である。愛はパロールなしでは考えられない[L'objet fétiche ne nécessite pas la présence de l'amour, alors que, du côté femme, il faut en passer par l'amour en tant que l'amour parle, que l'amour n'est pas pensable sans la parole.]。(J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999, 摘要)



ラカンにおけるアンコール以後の性別化の式のデフレ(価値下落)とは、この観点からも言いうる。性別化の式に立脚すれば「女性の享楽」という語は一般にはひどく矛盾に溢れた言葉なのである。身体の享楽である筈の女性の享楽はファルス享楽(言語の享楽)になってしまうのだから(仮に非全体[pastout]の彼岸にある女性の享楽という観点を受け入れても、結局ファルスに従属した女性=身体である)。



ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で[jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. ](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)



別の言い方をすれば、どうして解剖学的女性は癌になるのだろうか。


パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である[La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.](Lacan, S23, 17 Février 1976)




女性が男性以上に「パロール享楽=ファルス享楽」に耽るようになる原因のひとつとして、ドゥルーズ &ガタリの記述に思いを馳せることができる。


女性独自のエクリチュール[ écriture proprement féminine]について意見を求められたとき、ヴァージニア・ウルフは「女性として[en tant que femme]」書くと考えただけで身の毛のよだつ思いだと答えている。それよりもむしろ、エクリチュールが女性への生成変化 [devenir-femme]を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子 [atomes de féminité] を産み出すことが必要なのだ。

とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義者のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ[Ils deviennent-femme en écrivant]。ここで問われるべきなのは、大がかりな二元的機械の内側で男性と女性を対立させる有機体や歴史や言表行為の主体ではない。というか、それだけが問題になっているのではない。ここではまず身体が、つまり二元的に対立する有機体を製造するためにわれわれから盗まれる身体が問題なのだ[La question est d'abord celle du corps - le corps qu'on nous vole pour fabriquer des organismes opposables. ](ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』1980年)


ここで言われているのは、女性のエクリチュールとは身体のエクリチュールだということだ(別の用語なら「器官なき身体=蜘蛛」のエクリチュール)。そして引き続いて次のように書かれている。


ところが、まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである[Or, c'est à la fille qu'on vole d'abord ce corps]。そんなにお行儀が悪いのは困ります、あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。[cesse de te tenir comme ça, tu n'es plus une petite fille, tu n'es pas un garçon manqué, etc. ]最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押しつけられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の例を見せつけられ、欲望の対象として少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押しつけられる。つまり少女は最初の犠牲者でありながら、もう一方では模範と罠の役割も果たさなければならないということだ[La fille est la première victime, mais elle doit aussi servir d'exemple et de piège]。(ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』1980年)



どうだろうか、身体的なものを最初に喪うのは、解剖学的女性であるのはほぼ間違いがないだろう。「模範と罠」のエディプス的母による「身体の喪失」。21世紀の現在、このエディプス的母は以前に比べて少なくなっているだろうが、とはいえ依然、機能しているところはある筈だ。


ちなみにフロイトは『女性の性愛』(1931)にて、解剖学的女性における幼児期の身体の世話役としての母への憎悪[Feindseligkeit]を指摘している。