このところ古井由吉の発言の断片を主にネット上からいくらか拾っているのだが、現代の小説家にしては珍しく、氏は多くの領域のことを語っている。例えば世界資本主義。
しかし現在の苦境は、我が国ばかりでなく世界全体がひとつの限界域に、展開の限界に踏み入りつつあるところから、来るのではないか。(古井由吉「節を分ける時」『楽天の日々』2017年) |
|
近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。 その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉『しぶとく生き残った末裔として』 インタビュー富岡幸一郎『すばる』2015年9月号) |
|
このまま右肩上がりを前提にし続ければ、意外に人類の滅亡は早いんじゃないでしょうか。 もはや、滅亡をどう先送りするかという地点にまで来てしまったのではないでしょうか。〔・・・〕 民主主義の極地は、「民意」という名の下に全体主義の形を取り、全体主義の極地は、国家間の境界を越えた超資本主義の形を取ります。 ここで、無主主義という観念を導入した方がいいと思います。今は民主主義が尖鋭化して全体主義になった状況を考えた方が世界を見易いですが、独裁者がいるかと問われれば、 いないでしょう。主人はマネーかもしれないんです。(古井由吉『新潮 45』2012 年 1 月号 片山杜秀との対談) |
巷の古井ファンらしき小説家や文芸評論家やらは古井由吉のこういった発言の相にほとんど不感症に見えるがね。
民主主義➡︎民意という名の全体主義➡︎国家間の境界を超えた超資本主義➡︎無主主義➡︎主人はマネー、なんてのは、現在を実に正しく分析している。これらの発言から柄谷行人やその根にあるマルクスやカール・シュミットなどをすぐさま思い起こすね。
※参照
①資本の休みなき欲動ーーあるいは柄谷行人のマルクス
②経済なき自由主義、かつシュミットなき民主主義は寝言
もともと古井由吉は学者なんだ、よく学ぶ者という意味での学者だ。
作家というものになってしまってここまで来たことを、柄にもないようでも、なるようにしてなったのだろうとは思うが、ひとつ悔まれるのは、もしもこの道に入っていなければ、古今東西の詩文を、虚心とまでいかなくても、もっと闊達に読めただろうということである。 今の世の小説書きも詩文家のはしくれ、相手は横綱でこちらは幕下でも、せめて三分ぐら いには取れないものか、とケチな負けん気がはたらくものらしい。これもまもなく消えることだろう。(古井由吉『新潮』2018 年 3 月号) |
|
文学は世間の言語と無縁のはずがないから、文学も現実と共に貧しくなるのは当たり前。 いまほど言葉に実質がなく、言葉の枯渇が感じられることはないのではないか。言葉に信頼がないと、言葉をひっくり返して新しい意味を表現しようとしても、もどかしいだけ。まるで言葉の兵糧攻めにあっているようだ(古井由吉「朝日新聞」2002 年 5 月 24 日夕刊) |
|
日本の言語上の価値観がこうも崩れるとは思わなかった。そういう予測があったら別な生き方したかと思うね。 だからいまちょっともう無念の思いで見てるんだけれども、世上にいろいろ問題が起こるでしょう。その問題がほとんど、言語的な欺瞞から成り立っているのね。これはちょっと僕なんかには気味悪く思われる。俺は何していたんだと思うね。(古井由吉・福田和也対談「海燕」1996 年 6 月号) |
最初はこれらの発言を額面通り取っていいものかと迷ったが、やはり素直にそう受けとめべきなんだろうよ。
私には生来行き過ぎる傾向があって、唐代にさかのぼり、おおよそ漢代から南北六朝時代の詩を集めたアンソロジー、「古詩源」と言います。清の時代の沈徳潜が集めたものですが、 これを随分熱心に読みました。 ついでに、詩経や楚辞、さらに易経まで読んだのだから、我ながらご精進のことです。〔・・・〕 宗、肖柏、宗長の水無瀬三吟、湯山三吟、宗祇の独吟、思わず引き込まれました。しかし、 引き込まれながらも、大もとのところがつかめない。自分の心得ていない呼吸というものがあるのだと思いました。以来、連歌というものが、見え隠れに私にとっての課題となってます。 (古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演「群像」2012 年 12 月号) |
|
ホフマンスタール、リルケ、トラークル、さかのぼってヘルダーリン。そしてドイツ語訳になりますが、ダンテとギリシャ悲劇。また中世の神秘主義者の手記に幾らか深入りしてしまいました。〔・・・〕 |
そのうちにいつか、フランス語を読み出してました。ボードレール、マラルメ、ヴァレリー。還暦近くになってからは、マラルメにこだわりました。私に読めるわけがない。読むというより解読でした。結構な長逗留をしました。 |
難解ですが、難解なくせに、澄明の感じのある詩人です。クラルテとは一体何なのか。あるいは意味の解体と紙一重のところで生ずるものではないか。あるいは、混沌からもう一度光明が差してくるように、言葉の再生を願うものではないか。(古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演「群像」2012 年 12 月号) |
|
あるとき旅行先でヘルダーリンを読んでいるうちに、ギリシャ語のおさらいをしなければならないと思いました。すでに還暦過ぎです。 長続きしないだろうと思っていたら、思いのほかのご熱心で、文法書から始めて、アイスキュロスやソフォクレス、さらにピンダロス、毒を喰らわば皿までのこころで、ソクラテス以前の哲学者たち、さらにホメロスまでギリシャ語で読んだものです。 読んで別に賢くなったわけではありません。ただ、音律と意味、あるいは音律と論理というものの非常に微妙なかかわりに、しばしば触れる思いがしました。(古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演「群像」2012 年 12 月号) |
これ以外にも、古井由吉は何を終生反復してきたのか。 |
あまりにも濃い反復感というものは、その中に踏み込んでついたたずんだ者にとって、日常の内から、思いがけない時空へつながる。抜け穴の入口みたいなものだ。(古井由吉「厠の静まり」『仮往生伝試文』1989年) |
私にとって古井由吉は何よりもまず外傷性戦争神経症の人だけれどさ。 |
外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; また分析の最中にヒステリー形式の発作がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行に導かれる事をわれわれは見出す。 wo hysteriforme Anfälle vorkommen, die eine Analyse zulassen, erfährt man, daß der Anfall einer vollen Versetzung in diese Situation entspricht. 〔・・・〕 |
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…Es ist so, als ob diese Kranken mit der traumatischen Situation nicht fertiggeworden wären, als ob diese noch als unbezwungene aktuelle Aufgabe vor ihnen stände(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
例えば古井由吉はこう言っている、
いまだにね、消防車のサイレンを聞くと、ドキッとして不吉な気持ちになるの。30 歳を過ぎる頃まで、敵機襲来で東京中が火の海になる夢を見てはうなされた。あの光景は、僕の中に深く深く刻み込まれていますから、どうしようもない。ごく最近のことですよ、戦争体験を小説に書けるようになったのは。( 古井由吉「サライ」2011 年 3 月号) |
||
ーーこの文は、中井久夫のトラウマ研究における洞察や指摘とともに読むことができる[参照]。 あるいは、ーー
|
古井由吉におけるエロの反復も外傷性戦争神経症絡みだよ、 |
僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』2009年) |
より一般的に言えば、社会共同体の出来事においての古井由吉の重要なメッセージはこういうことだな、ーー《どういう災いを経てわれわれは生きているか。その災いがまたいつ現れるかわからないって、 そういう感覚をもう一度取り戻した方がいいんじゃないですかね。》(古井由吉「新潮」2017 年 6 月号又吉直樹対談)