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2023年12月1日金曜日

女の尻はなぜあんなにも重要なのか

 前回から引き続くが、なぜなんだろうか、既にご存知だろうか。

ブニュエル&ダリ『アンダルシアの犬』1929年


私はこの数年、何度も何度も似たようななことを繰り返してるが、愛の起源は女のお尻である。

フロイトは表向きは愛の起源は母の乳房と言ってることが多い、『アンダルシアの犬』が手始めに示しているように。


小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である[Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung ](フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust]。〔・・・〕


この最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ]


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)



ーーここで重要なのは、男にとっても女にとっても母の乳房が愛の起源だということだ。したがってフロイトは男性の愛の特性は対象愛、女性の愛の特性は自己愛だとナルシシズム論で言っている。


そして女が自己愛ではなく対象愛となるのは、フロイトの臨床経験においてはエディプスコンプレクスに関わる。


われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。〔・・・〕

もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る。

(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


現在は過去に比べて少なくなったとはいえ、ツイッターで観察するとこのエディプスコンプレクスはそれなりに残存してるように見える。例えば親露派女性のプーチン愛はこのにおいがぷんぷんする。


さらに言えば、女たちのファシスト好みはおそらくエディプスコンプレクスに関わるのではないか。



女はみなファシストを讃える

Every woman adores a Fascist


ーーシルヴィア・プラス SYLVIA PLATH, Daddy, 1962



このエディプスコンプレクスの意味は、現実には弱い父の代わりに強いファシスト的父を探し求めて讃えるのである。



ところでフロイトは母の乳房の根にあるのは胎内状況とか母胎と言っている。


心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



これは論理的にそうなる、先に掲げた《子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房》の底には「胎児を滋養する母胎」が必ずある。したがって愛の起源は女の尻だ、より具体的に言えば、《われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur》 (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones)、つまり女性器あるいは子宮、さらには羊水のことだ。人は原初の身体の記憶として「胎内の記憶」(中井久夫)が必ずある、心はもちろん憶えていないが、身体にはその記憶が刻印されている。



橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。


だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)へのの越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt, ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)


ここでニーチェの橋を挿入しておこう、

人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり、没落であるということである。Was gross ist am Menschen, das ist, dass er eine Brücke und kein Zweck ist: was geliebt werden kann am Menschen, das ist, dass er ein _Übergang_ und ein _Untergang_ ist.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「序4」1883年)

愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意志することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)


で、フロイト的にはこうだ。

生の目標は死であり、死への回帰である[Das Ziel alles Lebens ist der Tod, und zurückgreifend:]〔・・・〕


有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった[der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. ](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である〔・・・〕。この欲動的反復過程…[ …ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (…) triebhaften Wiederholungsvorgänge…](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年、摘要)


ラカンが《死は愛である [la mort, c'est l'amour]》(Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)とか、《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ]》(Lacan, S17, 26 Novembre 1969)とか言ってるのはこの意味だ。


ま、あまり精神分析的解釈に深入りしないでも、冒頭のブリュネリ&ダリの『アンダルシアの犬』でいいんだが。人はみなアノたぐいを反復強迫してる筈だ、その形態は各人異なるとはいえ。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



あるいはマン・レイの祈りでよろしい。





われわれが明確な線を辿って追求できることは、幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung in klaren Umrissen verfolgen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


フロイトにおいて究極の寄る辺なさは喪われた子宮内生活[das verlorene Intrauterinleben]に関わる[参照]。

したがって女の尻は祈りの対象の起源にほかならない。



問題となっている女なるものは神の別名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)