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2023年12月11日月曜日

他人の痛みを知ることなき科学は人間の墓場にほかならない


 前回から引き続くが、人文学は廃れたんだよ、科学万能主義の時代だからな、もはや「人間とは何か」なんて考えるのはやめにしたんだ。実際、人文学を専攻していると明らかに就職に不利な時代だからな、人文学専攻者が非専門的と扱われるのは確かにやむ得ないところもある。

そもそも人文学(人間学)と職業は水と油かもしれない。武満徹は、大島渚の「すべての職業は屈辱」を引用しつつ、次のように言っているけどね。


「社会的な存在形態としては、映画監督は映画を撮る職業だから映画を撮っているにすぎない。そしてそのことによって、すべての職業が屈辱である」と、大島渚氏は著書に書いていますが、作曲家である私もその苦い意識から遁れようはないのです。


作曲家という表現行為が否応なく職業化して制度に組み込まれていく。〔・・・〕


私はけっして音と触れることの、また、音楽することの喜びを失ったわけではありません。それを知っているから、却って音楽を作る専門家であることを疑わないではいられないのです。


音楽を創る者と、聴かされる大衆という図式は考えなおされなければならないでしょう。しかもそれはきわめて積極的にされなければならない。これまで、疑うことなく在りつづけたこの図式は、別の新たな関係の前に破壊されるでしょう。そうでなければ文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かうしかない。(武満徹-川田順造往復書簡『音・ことば・人間』1980年)


ここでは、《文化はすべて制度に組み込まれて因習化し、頽廃へ向かう》の「文化」と「制度」に、「人間学」と「科学万能主義制度」を代入して、「人間学はすべて科学万能主義制度に組み込まれ頽廃に向かう」としておこう。そして、ーー《いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ]》(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)。われわれの時代は繊細さの欠如の時代さ。


1974年のラカン、73歳のラカンは、ラブレーの「科学は魂の墓場」をめぐる文を引用してこう語っている。

ラブレーはこう書いている、《良心なき科学は魂の墓場にほかならない》と。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった 。


ce qu'a écrit RABELAIS…  


« Science sans conscience - a-t-il dit - n'est que ruine de l'âme ».   


Eh ben, c'est vrai.  C'est à prendre seulement, non pas comme les curés le prennent, à savoir que ça fait des ravages, dans cette âme qui comme chacun sait n'existe pas, mais ça fout l'âme par terre !   (Lacan, S21, 19 Février 1974)


この後、アリストテレスの『魂について』に触れつつ、《魂以外に人間は存在しない[il n'y a pas plus de monde que d'âme.]》等々言っているのだが、今は当面、それを傍にやる。ここでの問いは良心[conscience]である。


良心なき科学は魂の墓場にほかならない Science sans conscience n'est que ruine de l'âme (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』)




ここで「至高の人文学者」中井久夫の「良心」をめぐる文を引用しよう。


フランス語でもスペイン語でもイタリア語でも、「良心」という言葉と「意識」という言葉とは同じである。日本人はちょっと当惑する。


これはラテン語の conscientia(コンスキエンティア)にさかのぼる。それが各国語に語形変化しただけのことである。聖ヒエロニスムが聖書をラテン語に訳したとき、ギリシャ語の syneidesis(シュネイデーシス)の訳に使ったのである。このギリシャ語は、もともとは「共に知ること」という言葉で、「他人(の傷みなど)を知ること」を指し、次に自己認識をも指した。キリスト教に入って初めて超越的なものとの関係の意味になって、「神に知られるもの」という意味で「良心」と「意識」とが同じ言葉で表されるようになった。「良心」と「自己認識」はひとつである。だから、「無意識」が自分の行動を決定しているというフロイト派精神分析の考えに、西欧の人が大変な抵抗を覚えるのだと私は思う。「自分が知らない自分の内なるもの、すなわち神に自分の責任をもってみせられないもの」に動かされているなんて、とんでもないことである。それは内なる「悪魔」ではないか。


ドイツ語の意識は「ゲヴィッセン」といって「知っていることの総体」である。ルターが聖書をドイツ語に訳するときに「シュネイデーシス」につけた訳である。意味からは「意識」に近いようであるけれども「良心」を指す。「自分が知っていることの総体」は、神との関係において初めて「良心」の意味をもつことができる。我々なら、だれも見ていなくても「天知る、地知る、己知る」ということが一番近そうである。


なるほど、英語では「良心」 conscienceと「意識」consciousness とを区別するけれど、前者がフランス語同様、元来は双方を指していたのであり、後者は学術用語として一七世紀に生まれた、ずっと遅い言葉である。「良心」と「意識」の分離はどうもプロテスタンディズムの成立と深い関係がありそうである。


「意識」と「良心」とはいまでもフランスやスペインやイタリアでは、強いて区別するときには「心理的」「道徳的」と形容詞をつける。そういう近さは、日本語からは見えてこない。「意識」は漢語であるけれども、大乗仏教の翻訳によく使われた言葉である。


日本語の「良心」という言葉は、元来は『孟子』に出てくる言葉である。キリスト教は人間を罪深い存在とするから、孟子の性善説とは本来非常に違うものであるけれども、井上哲次郎という、明治初期にたくさんの哲学用語を日本語に訳した人が、ドイツ語の Gewisswen を訳すときに『孟子』から引っ張ってきたという。聖書の日本語訳のほうが先かもしれないが、私にはそこまで調べられない。


このように、西欧の「良心」は神と向かい合う自己意識である。神の姿が遠くなった近代西欧において、意識は「自己意識」を指すものになった。ここで、近代哲学においてもっともやっかいな問題の一つ、「他者問題」すなわち「他者認識が可能か」という問題が出てきた。「神のごとき自己が認識する自己等価物」という意味では他者は認識できないと私は思う。ベルギーのルーヴァン大学を中心とする新トマス主義のカトリック哲学は、「自己」を「他者からの贈り物」とするそうだが、この考えは、私にはどこか真実さが感じられる。


逆にキリスト教以前にさかのぼれば、コンスキエンティアもシュネイデーシスも「他人(の痛み)を知ること」であった。オクスフォード・ギリシャ語・英語大辞典の最初の例は産婆が(産婦の)痛みを共に感じることに関するものである。だから、だぶん、そんなに高尚なことでなくてよいのだろう。私は、人がけがをした瞬間、「あ、痛っ」と叫んでしまうことが何度かあった。こういうのもシュネイデーシスなのだろう。だとすれば、神を介する以前の古代ギリシャ・ローマの倫理的基礎は惻隠の情とそんなに遠くない。(中井久夫「ボランティアとは何か」初出1998年『時のしずく』所収)



ここでも《良心なき科学は魂の墓場にほかならない》の「良心」と「魂」に、「他人の痛みを知ること」と「人間」を代入して、「他人の痛みを知ることなき科学は人間の墓場にほかならない」としよう。

この「ラブレー=ラカン=中井久夫版」をいくらか穏やかにしたヴァージョンが、先に掲げた武満徹変奏版の「人間学はすべて科学万能主義制度に組み込まれて頽廃に向かう」、あるいはバルト=ニーチェの私たちは、繊細さの欠如によって科学的となる[nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ]》だな。