前回、ラブレーの次の文をめぐった。
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良心なき科学は魂の墓場にほかならない[ Science sans conscience n'est que ruine de l'âme] (ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル』)
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そして「良心」は中井久夫に依拠しつつ、「他人の痛みを知ること」、「魂」はラカン=アリストレレスの『魂について』に依拠しつつーー《魂以外に人間は存在しない[il n'y a pas plus de monde que d'âme.]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)ーー「人間」とし、ラブレーを「他人の痛みを知ることなき科学は人間の墓場にほかならない」と当面読み換えた。
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とはいえ、ーーである。魂は何なのか、というのは私には実はあまりはっきりしていない。
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以前、「心と精神と魂」、それに対する「身体」を用語的に少しだけ調べてみたことがある。
古代ギリシア語の大きな区分、プシュケー/ソーマに対して、プシュケーをさらに「心・精神・魂」に区分する言語と「精神と魂」の区分しかない言語があるのだ。
例えば、精神分析[Psychoanalyse]のPsychoはギリシア語起源のプシュケー[ψυχή psychḗ ]であり、このプシュケー分析は、「心分析」「魂分析」とも訳されうる語である。
だが「心・精神・魂」の三つの語は日本人にとっては受ける印象が大きく異なるのではないか。おそらく心は感情、精神は知性と捉える方が多いだろうが、だが魂は? 大江は小説のなかだが、こう書いた、《魂のことを追いかけて行くと、最終的には神に行きあたるわけでしょう?》 (大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部)
あるいは折口は「恋ふは魂の還るを乞ふ」とした。
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こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)
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他方、ドゥルーズはアリアドネの迷宮は魂、愛される者とし、さらに永遠回帰だとした。
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ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない…[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...](ニーチェ、1887年秋遺稿)
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アリアドネは、アニマ、魂である[Ariane est l'Anima, l'Ame](ドゥルーズ『ニーチェと哲学』1962年)
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愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる[L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1970年)
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迷宮は永遠回帰そのものを指示する[le labyrinthe désigne l’éternel retour lui-même]。(ドゥルーズ『ニーチェと哲学』 1962年)
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いずれにせよ魂と精神はほかも種々の使用法があるだろうが、通常、魂は精神という語は大きく異なる意味で使われるように思う。
例えば、フロイトの精神分析において最も重要概念をひとつだけ挙げろ、と言われたら欲動[Trieb]だろうが、この欲動の定義文は、通常、次のように訳されている。
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欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
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この「心的なもの」は、先の表に基づけば、「魂的なもの」とすることができる。すなわち《欲動は魂的なものと身体的なものの境界概念》と。
さらにーー、
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エスの欲求によって引き起こされた緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)
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これまた《欲動は魂的生に課される身体的要求》となる。したがって精神分析は先に示した魂分析というよりも、「魂と身体の境界分析」とすることができるのではないか。もっとも「心と身体の境界分析」、「精神と身体の境界分析」としたほうが一般には馴染みやすいだろうが。
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そしてこの境界分析がラカンにおいては享楽分析である。
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享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
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ラカンにおける穴とは原抑圧された享楽(欲動)によるトラウマの穴である➡︎「穴穴穴穴ーー現実界原抑圧享楽欲動」。
フロイトの欲動、ラカンの享楽は主に幼児期の身体の出来事としてのトラウマーー原抑圧されたトラウマーーであり、一般に心的外傷とされるトラウマは、この両者にとっては、「心と身体の境界的外傷」である。そして、ひょっとして魂はこの境界にあるのではないか、と私はときに思うことがある。
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………………
なおニーチェは、肉体[Leib]に対しての魂[Seele]、さらには精神[Geist]という語を次のように使っている。
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「わたしは肉体であり魂である」ーーそう幼子は言う[»Leib bin ich und Seele« – so redet das Kind.]。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。
さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。
自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と[Leib bin ich ganz und gar, und nichts außerdem; Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.]
肉体はひとつの大きい理性である[Der Leib ist eine große Vernunft]。一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。
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わたしの兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である[Werkzeug deines Leibes ist auch deine kleine Vernunft, mein Bruder, die du »Geist« nennst, ein kleines Werk- und Spielzeug deiner großen Vernunft.]
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君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それ「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。[»Ich« sagst du und bist stolz auf dies Wort. Aber das Größere ist, woran du nicht glauben willst – dein Leib und seine große Vernunft: die sagt nicht Ich, aber tut Ich.]
感覚と認識、それは、けっしてそれ自体が目的とならない。だが、感覚と精神は、自分たちがいっさいのことの目的だと、君を説得しようとする。それほどにこの両者、感覚と精神は虚栄心と思い上がったうぬぼれに充ちている[Was der Sinn fühlt, was der Geist erkennt, das hat niemals in sich sein Ende. Aber Sinn und Geist möchten dich überreden, sie seien aller Dinge Ende: so eitel sind sie.]
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だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。この「本然のおのれ」は、感覚の目をもってもたずねる、精神の耳をもっても聞くのである[Werk- und Spielzeuge sind Sinn und Geist: hinter ihnen liegt noch das Selbst. Das Selbst sucht auch mit den Augen der Sinne, es horcht auch mit den Ohren des Geistes.]
こうして、この「本来のおのれ」は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして「我」の支配者でもある[Immer horcht das Selbst und sucht: es vergleicht, bezwingt, erobert, zerstört. Es herrscht und ist auch des Ichs Beherrscher.]
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わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、それが「本来のおのれ」である。 君の肉体のなかに、 かれが生んでいる。君の肉体がかれである[Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser – der heißt Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」Von den Verächtern des Leibes 、1883年)
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さらにデカルトは《精神と身体との結合[mélange de l’esprit avec le corps]》(『省察』Méditation 「第六省察」)について語っており[参照]、スピノザは次のように記している。
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自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年)
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ーーこの精神と身体[mentem et corpus]と訳されてきた表現は、先に掲げた表に準拠すれば「心と身体」である。
……………
ちなみにハドリアヌスの名高い辞世の詩は、去ってゆく魂へ呼びかける詩だが、呼びかける主体としての自己は肉体側にとどまっている。
たよりない、いとおしい、魂よ、
おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、
いま立って行こうとするのか
青ざめた、硬い、裸なあの場所へ
もう、むかしみたいに戯れもせず……
ーーユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』(多田智満子訳)より
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Animula, vagula, blandula
Hospes comesque corporis
Quae nunc abibis in loca
Pallidula, rigida, nudula,
Nec, ut soles, dabis iocos…
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わたしの小さな魂よ
愉楽のかぎりをつくし
甘い言葉をささやき
縁も知れぬ者ながらこの身に
寄り添ってきたその末に
何処へ行こうとしているのか
蒼ざめて ひややかに 赤裸に
戯れのひとつも口にせず
ーー古井由吉「雨の果てから」『この道』2019年より
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魂という語はこのようにも使われるのである。
この魂は大江の魂に近いかもしれない。
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この村に生まれた者は、死ねば魂になって谷間からでも「在」からでもグルグル旋回して登って、それから森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごすといわれておりましょう? そもそもが森の高みにおった魂が、ムササビのように滑空して、赤んぼうの身体に入ったともいいましょうが? (大江健三郎『M/T と森のフシギの物語』1986年)
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プルーストの魂はどうか?
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私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う、それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないそのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。
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Je trouve très raisonnable la croyance celtique que les âmes de ceux que nous avons perdus sont captives dans quelque être inférieur, dans une bête, un végétal, une chose inanimée, perdues en effet pour nous jusqu'au jour, qui pour beaucoup ne vient jamais, où nous nous trouvons passer près de l'arbre, entrer en possession de l'objet qui est leur prison. Alors elles tressaillent, nous appellent, et sitôt que nous les avons reconnues, l'enchantement est brisé. Délivrées par nous, elles ont vaincu la mort et reviennent vivre avec nous.
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われわれの過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである。
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Il en est ainsi de notre passé. C'est peine perdue que nous cherchions à l'évoquer, tous les efforts de notre intelligence sont inutiles. Il est caché hors de son domaine et de sa portée, en quelque objet matériel (en la sensation que nous donnerait cet objet matériel), que nous ne soupçonnons pas. Cet objet, il dépend du hasard que nous le rencontrions avant de mourir, ou que nous ne le rencontrions pas.
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(プルースト『スワン家の方へ』)
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と、プルーストを引用すると、伊東静雄の詩句が遠くからいきなりやってくる・・・
(私の魂)といふことは言へない
しかも(私の魂)は記憶する
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
ーー伊東静雄
いま断片的な詩行をひとつの繋がりのように引用したが、これが私の伊東静雄である。そしてこの詩句が何処からともなくやってくると、ほとんど昏倒させられてしまう・・・
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過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され [Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」)
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