まず、ハイデガーの実存から始める。
かくして、人間の人間らしさを外立(外に立つ)として決定付けるとき、本質的な事は人間ではなく、外立という脱自の相としての実存である。So kommt es denn bei der Bestimmung der Menschlichkeit des Menschen als der Ek-sistenz darauf an, daß nicht der Mensch das Wesentliche ist, sondern das Sein als die Dimension des Ekstatischen der Ek-sistenz. (ハイデガー「ヒューマニズム書簡」Heidegger: Brief über den Humanismus, 1947) |
《外立という脱自の相としての実存[das Sein als die Dimension des Ekstatischen der Ek-sistenz]》とあるように、ハイデガーの実存は自我の外に立つことである。 |
ところでニーチェの実存は意味外の不気味なものであり、親密さをも感じさせるものである。 |
不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年) |
未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親密さを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年) |
この不気味かつ親密はフロイトにおいても同様。 |
不気味なものは、ある種の親密なものである[Unheimlich ist irgendwie eine Art von heimlich.](『フロイト『不気味なもの』第1章、1919年) |
不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen](フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927年) |
さらに、不気味なものはフロイトにとって異者であり、抑圧されたものの回帰にかかわる。 |
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不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要) |
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不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの』第3章、1919年) |
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※ここでの抑圧は第一次抑圧としての原抑圧であることに注意[参照:原抑圧と後期抑圧]。 |
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ラカンはこの原抑圧された親密な不気味なものを外密[Extimité]と翻訳した。 |
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親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](Lacan, S7, 03 Février 1960) |
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モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
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異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
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ーー見ての通り、外密=モノ=異者=不気味なものである。 |
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そしてこの外密がハイデガーの外立であり、ラカンの実存(現実界)にほかならない。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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現実界の外立[l'ex-sistence du Réel](Lacan, S22, 11 Mars 1975 ) |
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ーーこの二文から、現実界はモノの外立[l'ex-sistence de la Chose]となるが、モノの定義上、異者の外立、不気味なものの外立と言い換えてもよい。 |
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すなわち「現実界(実存)=外密=モノ=異者=不気味なもの=外立」であり、これがリアルな対象aである(ラカンの対象aはイマジネールな対象aもあるので注意)。
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そしてこれらの用語群が排除としての原抑圧されたものにほかならない。 |
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原抑圧の外立 [l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
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※参照:中井久夫の排除 |
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このように、少なくとも用語的に、ハイデガーの「脱自としての実存の外立」を扇の要にして、ニーチェフロイトラカンが繋がるのである。
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ところで折口信夫には、万葉集の「外に立つ」(トに立つ)という表現を「神が外に立つ」、「まれびとが外に立つ」と解釈する『まれびとの意義』論がある。 |
私は此章で、まれびとは古くは、神を斥す語であつて、とこよから時を定めて來り訪ふことがあると思はれて居たことを説かうとするのである。〔・・・〕 にほどりの葛飾早稻をにへすとも、彼の可愛しきを外に立てめやも誰ぞ。 此家の戸押ふる。にふなみに、我が夫を行りて、齋ふ此戸を 此二首の東歌(萬葉集卷十四)は、東國の「刈り上げ祭り」の夜の樣を傳へてゐるのである。にへは神及び神なる人の天子の食物の總稱なる「贄」と一つ語であつて、刈り上げの穀物を供ずる所作をこめて表す方に分化してゐる。… にへする夜の物忌みに、家人は出拂うて、特定の女だけが殘つて居る。處女であることも、主婦であることもあつたであらう。家人の外に避けて居るのは、神の來訪あるが爲である。 |
「戸おそふる」と言ひ、「外に立つ」(トに立つ)と謠うたのは、戸を叩いて其來訪を告げた印象が、深く記憶せられて居たからである。とふはこたふの對で、言ひかけるであり、たづぬはさぐるを原義として居る。人の家を訪問する義を持つた語としては、おとなふ・おとづるがある。音を語根とした「音を立てる」を本義とする語が、戸の音にばかり聯想が偏倚して、訪問する義を持つ樣になつたのは、長い民間傳承を背景に持つて居たからである。祭りの夜に神の來て、ほと〳〵と叩くおとなひに、豐かな期待を下に抱きながら、恐怖と畏敬とに縮みあがつた邑落幾代の生活が、産んだ語であつた。だから、訪問する義の語自體が、神を外にして出來なかつたことが知れるのである。(折口信夫「國文學の發生(第三稿)まれびとの意義」初出1929年) |
この神が外に立つこと自体、ラカンにもあるのだ、《神の外立[l'ex-sistence de Dieu]》 (Lacan, S22, 08 Avril 1975)と。 |
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ここでの神は女なるものである。 |
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一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». ](ラカン, S23, 16 Mars 1976) |
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だがさらにこうもある、《ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté. ]》 (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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異者はまれびとだろうよ、étrangetéはまれびとと翻訳できる。 |
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すなわち神の外立=まれびとの外立。この精神分析が発見したことが折口に事実上あるのである。折口はこよなく偉大だね。いや万葉集自体が偉大なのかも。 もっともマレビトの外立は、探せばいくらでもあるのかもしれない。フロイトは書簡で次のように言っている。
前回に関連させて言えば、まれびとの外立は魂の外立かもしれないよ。実はこの投稿はこれが言いたかったのかも。 |