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2023年12月9日土曜日

中井久夫の排除

 

前回から引き続くが、理論的には次の文が決定的だったね、


外傷神経症〔・・・〕その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。〔・・・〕

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


特に、言語以前の防衛としての解離=排除(「外に放り投げる」)とする箇所が。


この「外に放り投げる」という排除を、ラカンはハイデガー用語の外立[Ek-sistenz]を使って、次のように言った。


原抑圧の外立 [l'ex-sistence de l'Urverdrängt] (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


外立とは象徴界の言語の外に立つ、という意味であり、ーー《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)ーー、中井久夫の日う排除(言語の「外に放り投げる」)と同一である。


つまり外立と排除は等価であり、原抑圧は排除である。

排除あるいは外立は同一である[terme de forclusion …ou d'ex-sistence…C'est le même.] (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

原抑圧の名は排除と呼ばれる[le nom du refoulement primordial…s'appelle la forclusion](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008)



で、ラカンは外立を穴、トラウマの穴とした。

外立自体は穴をなすことと定義される[L'ex-sistence comme telle se définit,…- fait trou.](Lacan, S22, 17 Décembre 1974)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


で、このトラウマの穴は身体ーー欲動の身体=享楽の身体ーーでもある。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


つまり外立とは、トラウマ的欲動の身体が言語の外に立つということを意味する。

これが排除としての原抑圧による現実界のトラウマである。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

外立の現実界がある [il a le Réel de l'ex-sistence] (Lacan, S22, 11 Février 1975)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[ le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


ま、ラカンジャーゴンだとまわりくどくなってややこしいが、繰り返せば、中井久夫の云う言語以前の防衛としての解離=排除(「外に放り投げる」)でいいんだよ、これがフロイトの原抑圧の核心だね。


フロイトにも《リビドー解離[Libidoablösung]》(『症例シュレーバー』第3章、1911年)という概念があるが、欲動=リビドーであり、つまり欲動解離。そしてこれが《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』第4章、1920年)のこと。



(なお前期ラカンには「父の名の排除」という比較的よく知られている排除があるが、あれは単に父の隠喩の排除であって、フロイトの「排除された欲動」とは大きく異なり、二次的な排除である。

ラカンは晩年になってようやく注意を促している、《父の名の排除から来る以外の別の排除がある[il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. ]》(Lacan, S23、16 Mars 1976)。この別の排除こそ中井久夫が示した排除である。)


さて、あとは中井久夫が触れていない固着概念がフロイトにはあるが、固着とはトラウマ的身体の出来事への固着、かつ欲動の身体のエスへの置き残しであり(参照:残滓=置き残し文献、この固着ゆえに排除なる原抑圧が起こるということになる。


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。

The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


で、トラウマ的欲動の身体の別名は、邦訳では「異物」と訳されてきた「異者としての身体」である。



トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



この異者としての身体、つまり異物にも中井久夫は次の形で触れている。


一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


先程、中井久夫は固着概念に触れていないとしたが、この異物こそ事実上、固着の別名であり、ま、完璧だよ、中井久夫ファンとしてもし言わせてもらえば。


原初の現実界の出発点は「異者としての身体[Fremdkörper]」として居残って効果をもったままである。これは、身体的な何ものかがどの症状の核にも現前しているということである。より一般的なフロイト理論用語では、いわゆる欲動の根[Triebwurzel]あるいは固着点である。ラカンに従って、われわれはこの固着点[Stelle der Fixierung]のポジションに対象aを置くことができる。

the original real starting point remains effective as a “foreign body.”… the fact that something of the body is present in the kernel of every symptom. In the more general terms of his theory, this is the so-called “root” of the drive or the point of fixation . Following Lacan, we can place the object (a) in this position. (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


上のバーハウの注釈に対象aとあるのは、セミネール10のラカンに現れている。


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963


そしてこの対象aとしての「固着の異者身体」が、現実界の穴、つまり現実界のトラウマだ。

対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.]   (Lacan, S13, 05 Janvier 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)



何はともあれ私のトラウマの捉え方は中井久夫から始まる。上に引用したポール・バーハウPaul Verhaegheを知ったのも、英語圏フロイトラカン派で最もトラウマと原抑圧に触れているからで、中井久夫を読んで、ラカン派はどんなこと言ってんだろ、と調べるなかで行き当たった。事実上、このバーハウを読んでからだな、フロイト・ラカンをいくらかマガオで読み始めたのは。


……………


なおこのところ何度か繰り返しているが、現在、日本ラカン協会理事長である立木康介が2022年になってもトンデモ寝言を言っている。

外傷性神経症・PTSD におけるトラウマと,「欲動が関与する」神経症的トラウマの違いは明白だ。(立木康介「トラウマ記憶とトラウマ経験のあいだ --精神分析的外傷論のアップデートの試み」. ISSUE DATE: 2022-06-30)


外傷神経症も神経症的トラウマもどちらも欲動の固着に関係するにも拘らず、である[参照]。こういう反フロイト的=反ラカン的な愚かしい誤謬を避けるためにも中井久夫を読み込むことは欠かせない。

…………………


※附記


なお前期ラカンはスナオにーー外立やら穴やらとラカンジャーゴンを使わずにーーフロイト用語を使って、現実界は固着のトラウマであることを示している。


固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1, 07 Juillet 1954)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)


この同化不能はフロイトのモノの定義であり、ラカンの現実界のトラウマである。


同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ]〔・・・〕問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[ le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


そしてモノは異者(異者としての身体)。

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


この異者としての身体(異物)が、上に示したようにエスの欲動蠢動としてのトラウマである。つまり、ラカンの現実界のトラウマは固着の異者身体である。


そして固着の別名が原抑圧された欲動(=排除された欲動)である。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察(症例シュレーバー)』1911年、摘要)

排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)


したがって、現実界のトラウマ=固着の異者身体は、排除された欲動を意味する。