今頃気づいたが、柄谷は今月初めにこう記しているな |
◼️柄谷行人「世界戦争の時代に思う──『帝国の構造』文庫化にあたって」 『図書』2023年12月号 目次 【巻頭エッセイ】2023.12.04 |
われわれは今、世界戦争の危機のさなかにある。それはいわば、国家と資本の「魔力」が前景化してきた状態である。このような「力」は、ホッブズが「リヴァイアサン」と呼び、マルクスが「物神」と呼んだような、人間と人間の交換から生じた観念的な力である。いずれも、人間が考案したようなものではない。だから、思い通りにコントロールすることも、廃棄することもできない。 かつてマルクス主義者は、国家の力によって資本物神を抑え込めば、まもなく国家も消滅するだろう、と考えた。ところがそうはいかなかった。結局、国家が強化されたばかりか、資本も存続する結果に終わったのである。以来、マルクス主義も否認され、国家・資本は人間が好んで採用したものであり、今後も適切な舵取りさえすれば人間を利する、と信じられてきた。 |
現実に、資本も国家も暴威を振るっているのに、人びとは、自分たちの力で何とかできるものだと信じ続けている。そして、AIの発展によって、また宇宙開発のような新奇なビジネスによって、世界を変えることができる、というような「生産様式論」に終始している。しかし、生産様式が変わっても、国家も資本も消えない。現に、今世界戦争が起こっている。私がこのことを予感したのは、ソ連邦崩壊後であった。その時期、「歴史の終焉」が語られたが、私は異議を唱え、二〇世紀の末に「交換様式論」を提起した。『帝国の構造』は、そこから国家の力を解明したものである。 |
要するに、資本国民国家の結婚がなくならない限りーー《ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である》(『世界史の構造』第9章)ーー、世界戦争は起こり続けるということが言いたい筈だ。 |
◼️人生を振り返ることについて:私の謎 柄谷行人回想録① 2023/2/20(火) |
――「戦争の時代が来る」と指摘されていましたが、ウクライナにロシアが侵攻する事態になっています。 柄谷 1989年のベルリンの崩壊以来、新聞も含め、「歴史の終焉」だとか、くだらないことを言ってきたんだからね。それが壊れたからって騒ぐなよ、と。初めからわかり切ってるじゃない。……などとまた言う気もしない。 |
たぶん集団的西側支援によるイスラエルのガザジェノサイドもこの線で考えているんじゃないか。 こうも言ってたね、 |
世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、2013年11月23日) |
米国が世界の脱ドル化で凹んだ後は、中国とインドのあいだの戦争は充分ありそうだね、インドが早々にBRICS共通通貨構想に難癖つけたりしてしているのもとっても悪い臭いがする。あるいは中露組と米印組で戦争やって米国が息を吹き返したり、ってのもありかもよ。中国とロシアは2040年ぐらいには少子高齢化が日本並みにひどくなるから、日本と同じようにヤケクソになって狂う筈だよ。
……………
冒頭の「世界戦争の時代に思う」に《ホッブズが「リヴァイアサン」と呼び、マルクスが「物神」と呼んだような、人間と人間の交換から生じた観念的な力》とあったが、ホッブズとマルクスの関係が比較的詳しく書かれている『トラクリ』から引用しておこう。 |
絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。 マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。 《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。 古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。 ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、 それが露呈するのだ。 |
たとえば、シュミットが評価するホップズについて考えてみよう。 ホップズは主権者を説明するために、万人が一人の者(リヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホッブズはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節C、鈴木他訳、同前)。すなわち、ホップズは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第4章 トランスクリティカルな対抗運動 P418) |
マルクスのフェティシズム(物神)についてもう少し詳しくは➡︎「資本の休みなき欲動ーーあるいは柄谷のマルクス」 トマス・ホッブズ Thomas Hobbesが、《人間は人間にとって狼[Homo homini Lupus. ]》としたのは、『市民論 (De cive)』にてだが[参照]ーーもともとこの表現は、ローマの喜劇作家プラウトゥスの『ろば物語』に出てくる言葉ーー、その具体的内容は『リヴァイアサン(Leviathan)』の次の二節に示されている。 |
わたしは第一に、全人類の一般的性向として、次から次へと力を求め、死によってのみ消滅する、やむことなく、また休止することのない欲望をあげる[in the first place, I put for a general inclination of all mankind a perpetual and restless desire of power after power, that ceaseth only in death. ](ホッブス『リヴァイアサン』第1部第11章) |
人びとは、すべての人を威圧しておく共通の力をもたずに生活しているあいだは、かれは戦争と呼ばれる状態にあるのであり、そして、かかる戦争は、万人の万人に対する戦争なのである[during the time men live without a common power to keep them all in awe, they are in that condition which is called war; and such a war as is of every man against every man. ](ホッブス『リヴァイアサン』第1部第13章) |
この《すべての人を威圧しておく共通の力》の柄谷版が「帝国の原理」だろうよ、 |
近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。〔・・・〕帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要〔・・・〕。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年) |
近代国家は、旧世界帝国の否定ないしは分解として生じた。ゆえに、旧帝国は概して否定的に見られている。ローマ帝国が称賛されることがままあるとしても、中国の帝国やモンゴルの帝国は蔑視されている。しかし、旧帝国には、近代国家にはない何かがある。それは、近代国家から生じる帝国主義とは似て非なるものである。資本=ネーション=国家を越えるためには、旧帝国をあらためて検討しなければならない。実際、近代国家の諸前提を越えようとする哲学的企ては、ライプニッツやカントのように、「帝国」の原理を受け継ぐ者によってなされてきたのである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年) |
帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年) |
この「帝国の原理」は、シュワブ組「世界経済フォーラム」のたぐいの「最悪の原理」に陥いる可能性はないんだろうかーーなどという問いはここではしないでおこう・・・ |