このブログを検索

2024年2月10日土曜日

金融資本は狂気の母

 


岩井克人の『貨幣論』は次の文で終わる。

……わが人類は労働市場で人間の労働力が商品として売り買いされるよりもはるか以前に、剰余価値の創出という原罪をおかしていたのである。それは、貨幣の「ない」世界から貨幣の「ある」 世界へと歴史が跳躍しための「奇跡」のときのことである。その瞬間に、この世の最初の貨幣として商品交換を媒介しはじめたモノは、たんなるモノとしての価値を上回る価値をもつことになったのである。貨幣の「ない」世界と「ある」 世界との「あいだ」から、人間の労働を介在させることなく、まさに剰余価値が生まれていたのである。 そして、その後、本物の貨幣のたんなる代わりがそれ自体で本物の貨幣になってしまうというあの小さな「奇跡」がくりかえされ、モノとしての価値を上回る貨幣の貨幣としての価値はそのたびごとに大きさを拡大していくことになる。

金属のかけらや紙の切れはしや電磁気的なパルスといったものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって日々維持しつづける貨幣としての価値モノとしての価値をはるかに上回るこの価値こそ、歴史の始原における大きな「奇跡」とその後にくりかえされた小さな「奇跡」において生みだされた剰余価値の、今ここにおける痕跡にほかならない。それは、「天賦の人権のほんとうの楽園」であるべき「流通または商品交換の場」が、すでにその誕生において剰余価値という原罪を知っていたという事実を、今ここに生きているわれわれに日々教えつづけてくれているのである。

「貨幣論」の終わりとは、あらたな「資本論」の始まりである。(岩井克人『貨幣論』第5章「危機論」1993年)


ここにある剰余価値が前回示したようにフェティッシュであり、つまりフェティッシュとはノアの洪水以前からあるんだよ、


資本主義の歴史は古い。それは「ノアの洪水以前」においてすら、商人資本主義というかたちで存在していた。

古代における商業民族は、マルクスの言葉を借りれば、「いろいろな世界のあいだの隙間にいたエピクロスの神々のように」生きていたのである。たとえばフェニキア人やギリシャ人は、地中海を舞台にして小さな船をあやつり、遠く離れた地域のあいだの商品交換を仲介していた。かれらは、村と村、都市と都市、国と国との隙間にはいりこみ、一方で安いものを他方で高く売り、 他方で安いものを一方で高く売る。二つの地域の価格の差異がそのままかれらの利潤となったのである。

価格の差異を仲介して利潤を生みだすーー古代の商業民族が発見したこの原理こそ、まさに資本主義を「現実」に動かしてきた普遍原理にほかならない。資本主義とは、その意味で、世界がひとつの価格体系によって支配される閉じたシステムでは「ない」ことをその生存の条件とすることになる。実際、古今東西、価格の差異があるところにはどこでも資本主義が介入し、そこから利潤を生みだし続けてきたのである。

そして十八世紀の後半、資本主義はイギリスの国民経済の内側に共存する二つの価格体系を発見する。ひとつは市場における労働力と商品との交換比率(実質賃金率)であり、もうひとつは生産過程における労働の商品への変換比率(労働生産性)である。生産手段から切り放されている労働者が二番目の比率からは排除されているのにたいし、生産手段を所有している資本家はこの二つの比率のあいだをあたかも遠隔地交易の商人のように行き来できることになる。もちろん、そのあいだの差異がそのまま資本家の利潤になるのである。そして、この差異は、農村からの過剰な労働力の流出によって実質賃金率が労働生産性より低く抑えられているかぎり、安定的に存在し続けるものである。

これが、産業資本主義の原理である。それは、商人資本主義といかに異質に見えようと

も、差異が利潤を生み出すという資本主義の普遍原理のひとつの形態にすぎないのである。


(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)



ここでの利潤ってのは剰余価値なんだから、冒頭の文を別の方で言い換えただけだ。


・・・この過程の全形態は、G -W - G 'である。G' = G + ⊿ G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"[Mehrwert (surplus value)]と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G -W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



 ⊿ Gっていう記号が剰余価値であり、これが商品ーー事実上は貨幣、というのは《すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣》(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』)だからーーに付着してんだ。



商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs.] (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)


この貨幣フェティッシュと商品フェティッシュの底にあるのが資本フェティッシュであり、事実上の金融資本の姿だ。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)


この資本フェティッシュG - G´は、資本論2巻にも次の説明がある。


貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕

G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)


この生産過程の媒介なしの金儲け妄想としての資本フェティッシュの典型が、利子生み資本としての金融資本だ。


利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen] (マルクス『資本論』第3巻第24節)


というわけで現在ならユダヤ資本に代表される金融資本は狂気の母だよ、仮にG -W - G 'という形で、Wという商品が媒介されていてもこの商品はなんでもいいんだ。




商品の項には現在なら、軍産複合体における武器、医産複合体におけるワクチンなる生物兵器、環境産業複合体における気象危機「兵器」、食産複合体における昆虫「兵器」等々が入るな。


この2020年代に入って歴然と露顕したのはこれら官僚産業複合体のSF戦争機械だね。



問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争を所有(盗用)するかということである [La question est donc moins celle de la réalisation de la guerre que de l'appropriation de la machine de guerre. C'est en même temps que l'appareil d'Etat s’approprie la machine de guerre]〔・・・〕


国家戦争を総力戦にする要因は資本主義と密接に関係している「les facteurs qui font de la guerre d'Etat une guerre totale sont étroitement liés au capitalisme ]。

現在の状況は絶望的である。世界的規模の戦争機械がまるでSFのようにますます強力に構成されている[Sans doute la situation actuelle est-elle désespérante. On a vu la machine de guerre mondiale se constituer de plus en plus fort, comme dans un récit de science-fiction ;](ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年)


1990年以降に知的教養を積んだマルクスの死以降の世代はかなりのインテリでもマルクスのマの字も掠っていない連中がほとんどだがね、


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。

Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、1993年


とはいえいまさらキミたちにマルクス読めってのはムリだろうからな、時間がかかって。いや30年以上読んでるはずのマルクス学者だってまともなのはほんのひと握りだよ。とすれば日本語なら柄谷行人と岩井克人しかないね。この両者は立場の違いが大きくあって、どちらも資本主義を放っておくととんでもないことになるという面では同じだが、前者は資本主義ーー資本国家ネーションの結婚としての資本主義ーーの終わらせ方を模索、後者は資本主義は終わらない、貨幣システムや法人システム等の変革の模索だ。そうだな、この二人だったら10年ぐらい首を突っ込んだらイケルんじゃないかね(?)、でも「ごく標準的な」頭でだぜ、柄谷曰くの知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれている》日本の学者アタマだったらゼーンゼンだめさ・・・実際、蚊居肢子の「標準的な」頭で日本のマルクス主義者の論文読むと、殴ってやりたくなるヤツばかりだからな。ま、21世紀という知的退行の世紀のごくふつうな「知的に無惨な」頭の人は柄谷も岩井もアキラメタほうがいいよ。


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、21世紀に見る。そして21世紀は2001年でなく、1990年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)