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2024年2月6日火曜日

社会主義はイデオロギーとしての資本主義の最も忠実な体現者

 「カツ、おまえの仕事は、時代を二十年先駆けている」に引き続くが、冷戦終焉当時、最も感心したのはーーああ、こんな見方があるのか、とビックリしたのはーー、岩井克人の「二つの資本主義」の指摘だったね。イヤイヤ、この今だってすこぶる感心する。


◼️『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)より


【二つの資本主義:資本の主義/資本の論理】 (イデオロギーとしての資本主義/現実としての資本主義)

岩井克人)じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。


実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。


【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 

そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。


と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。


社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。



【資本の論理=差異性の論理】 

……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。


それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集1990)




《社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならない》、主義としての資本主義とは先にあったようにイデオロギーとしての資本主義のことだ。


上のは語りだが、ほぼ同時期に次のように書き直されている。ここでは「理念としての資本主義/現実としての資本主義」だ。



存在と意識は乖離する。現実と理念とは乖離するといってもよいだろう。それは資本主義にかんしても同様である。それゆえ、われわれは、資本主義の「理念」を資本主義の「現実」と区別することからはじめてみよう。


資本主義の「理念」――それは、古典派経済学・マルクス経済学・新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて想定してきた教科書的な資本主義像のことである。そして、その最初の本格的な描き手は、いうまでもなくいま全世界で盛大に没後二百年を記念されているあのアダム・スミスにほかならない。


市場で売り買いされる商品の価格は、日々の需給の条件によってはげしく変動している。だが、スミスは、この一見混沌とした市場価格の動きが、あたかも神の見えざる手にみちびかれるように自然価格に向かっていく傾向をもっていると論じたのである。ここでスミスのいう自然価格とは、商品生産のために投じられた生産要素がすべて正常な報酬率を支払われているときの価格であり、人間の経済活動を究極的に支配する唯一普遍の自然法則を体現したものであるとされる。


「見えざる手」の発見ーーそれは、資本主義をひとつの価格体系によって究極的に支配されている閉じたシステムとみなす、資本主義の「理念」の誕生であった。それは同時に、混沌とした経済現象の背後にある合理的な法則性を見いだす「科学」としての「経済学」の誕生でもあったのである。


その後リカードやマルクスは、スミスの自然価格論を労働価値説におきかえ、商品の価格を生産のために直接間接に投入される人間労働の大きさによって究極的に規定することになる。また、ワルラス、メンガー、ジェヴォンズによって創始された新古典派経済学は、スミスの自然価格を均衡価格と解釈しなおし、消費者の主体的な選好を考慮した限界原理をもちいて決定しなおすことになる。


もちろん、資本主義は資本の蓄積のために利潤を必要とする。それゆえ問題は、単一の価格体系に支配されている閉じたシステムから、いかに正の利潤が生みだされるかを示すことにある。一方のリカードやマルクスは、その源泉を人間労働の剰余価値生産にもとめた。産業革命によって飛躍的に向上した労働生産性により、資本家は労働者にみずから消費する商品の価値以上の価値をもつ商品を生産させうるようになったというのである。他方の新古典派経済学は、利潤率は長期的には利子率に等しくなるとし、この利子率の水準を消費者の時間選好の代価として決定することになる。だが、この二つの経済学派がいかに対立していようとも、いずれも資本主義を閉じたシステムとみなすスミスの「理念」を継承している点では変わりはない。


そして、皮肉なことに、この資本主義の「理念」のもっとも忠実な信奉者であったのは、ほかならぬ社会主義であったのである


もし混沌とした経済現象の背後に合理的な法則性が存在しているとするならば、その法則性を意識的に支配する可能性がうまれることになる。事実、市場の「見えざる手」は、この法則性を無政府的に作用するたんなる平均として実現しているにすぎない。


社会主義とは、この市場の無政府性を廃棄し、中央集権的な国家統制のもとで、労働をはじめとする生産要素の社会的な配分を資本主義以上に「合理」的におこなうことを意図したものである。それは「見えざる手」の実在を信じ、それをいわば「見える手」におきかえる試みとして解釈することができるだろう。その意味で、社会主義とは資本主義の「理念」の真の落とし子にほかならない。


だがじつは、「現実」としての資本主義とは、資本主義の「理念」に根本的に対立するものなのである。

(岩井克人「資本主義「理念」の敗北」1990年『二十一世紀の資本主義論』所収)




で、どうだろう、現在、世界資本主義の至高の体現者、例えばソロスやシュワブ(世界経済フォーラム首領)が共産主義者ーーここでの共産主義は「俗に知られている」マルクス主義だーーと呼ばれることがしばしばある。







これらの連中の共産主義とは、イデオロギーとしての資本主義の真の落とし子ではなかろうか。少なくともこういった視点を取りうるのも岩井克人のこよなくすぐれた「二つの資本主義」区分による。


なおソロスは次のように言っているぐらいだ、「私は自分をある種の神だと思い込んでいた…自分自身を神のような存在、すべての創造主だと考えるのは一種の病気だが、それを実践するようになってから、今はそれが心地よく感じられる」




https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2004-oct-04-oe-ehrenfeld4-story.html



若きマルクスはシェイクスピアを引用しつつ、貨幣は神、貨幣は娼婦と言っている。


シェイクスピアは『アテネのタイモン』のなかでいう、

「黄金か。〔・・・〕

こいつがこのくらいあれば黒も白に、醜も美に、

悪も善に、老も若に、臆病も勇敢に、卑賤も高貴にかえる」

〔・・・〕

シェイクスピアは貨幣についてとくに二つの属性をうきぼりにしている。


(1) 貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまたは自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒とである。それはできないことごとを兄弟のように親しくする。


(2) 貨幣は一般的な娼婦であり、人間と諸国民との一般的な取りもち役である。


Shakespeare hebt an dem Geld besonders 2 Eigenschaften heraus:


1. Es ist die sichtbare Gottheit, die Verwandlung aller menschlichen und natürlichen Eigenschaften in ihr Gegenteil, die allgemeine Verwechslung und Verkehrung der Dinge; es verbrüdert Unmöglichkeiten;


2. Es ist die allgemeine Hure, der allgemeine Kuppler der Menschen und Völker.

貨幣が一切の人間的および自然的な性質を転倒させまた倒錯させること、できないことごとを兄弟のように親しくさせることーー神的な力――は、人間の疎外された類的本質、外化されつつあり自己を譲渡しつつある類的本質としての、貨幣の本質のなかに存している。貨幣は人類の外化された能力である。


私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがって、貨幣はこれらの各本質諸力のいずれをも、それがそれ自体としてはそうでないようなあるもの、すなわち反対のものに変ずるのである。

Die Verkehrung und Verwechslung aller menschlichen und natürlichen Qualitäten, die Verbrüderung der Unmöglichkeiten – die göttliche Kraft –des Geldes liegt in seinem Wesen als dem entfremdeten, entäußernden und sich veräußernden Gattungswesen der Menschen. Es ist das entäußerte Vermögen der Menschheit.

Was ich qua Mensch nicht vermag, was also alle meine individuellen Wesenskräfte nicht vermögen, das vermag ich durch das Geld. Das Geld macht also jede dieser Wesenskräfte zu etwas, was sie an sich nicht ist, d.h. zu ihrem Gegenteil.

(マルクス『経済学・哲学草稿』Karl Marx, Ökonomisch-philosophische Manuskripte, 1844年)



この観点からも、巨額のマネーを自由に動かせるソロスが自らを神とするのは実に「論理的」だね。


…………


※附記


自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所にのみ存在する[ Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft.](マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章、1867年)

ユダヤ教の現世的根拠は何か。それは実利的欲求すなわち利己心である。ユダヤ人の現世的崇拝の対象は何か。それはボロ儲けである。ユダヤ人の現世的な神とは何か。それはカネである。よしそうだとすれば、ボロ儲けとカネから、すなわちこの実際的で現実的なユダヤ教から解放されることが現代の自己開放ということになろう。

Welches ist der weltliche Grund des Judentums? Das praktische Bedürfnis, der Eigennutz. Welches ist der weltliche Kultus des Juden? Der Schacher. Welches ist sein weltlicher Gott? Das Geld. Nun wohl! Die Emanzipation vom Schacher und vom Geld, also vom praktischen, realen Judentum wäre die Selbstemanzipation unsrer Zeit.

(マルクス 『ユダヤ人問題によせて』1844年)


自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人「二十一世紀の資本主義論」初出2000年『二十一世紀の資本主義論』所収、2000年)