このブログを検索

2024年2月5日月曜日

氏族社会の"高次元での回復[Wiederbelebung in höherer Form ]"

 

『群像』2020年3月に掲載された「『マルクスその可能性の中心』英語版序文」(柄谷行人)の次の箇所は交換様式ABCDについてとてもよくまとまって簡潔明快に書かれている。


 すでにマルセル・モースは、氏族社会の経済的土台を贈与──お返しという互酬交換に見いだしていた。私はそれを交換様式Aと呼ぶ。これが共同体を構成する「力」をもたらす。さらに私は、国家もまた、国民の自発的な服従-国家による保護という交換によって成り立つと考えた。それを交換様式Bと呼ぶ。武力とは異なる、国家の「力」はそこから来る。それらに対して、通常の商品交換を私は交換様式Cと呼ぶ。ここから、貨幣の「力」が生じるのだ。


 以上の三つに加えて、それらを揚棄しようとする交換様式Dがある。これは歴史的には、古代帝国の時代に普遍宗教というかたちをとってあらわれた、いわば、神の「力」として。Dは局所的であれ、その後の社会構成体のなかに存続してきた。それはたとえば、一九世紀半ばに共産主義思想としてあらわれたのである。マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。

 社会構成体は歴史的に、これらの交換様式の接合体としてあった。氏族社会では、交換様式Aが支配的である。注意すべきなのは、この段階でも、交換様式BやCが萌芽的に存在することだ。Bが支配的となるにつれて、国家が形成される。このとき、Aは消滅するのではなく、国家や領主に従属する農業的共同体として存続する。一方、CはBが発展するにつれて広がった。つまり、領域国家が形成される段階で、貨幣経済が発展した。古代の世界帝国の段階で、Bの下でAとCが接合されるにいたった。


 交換様式Cが社会構成体において優越的となったのは、産業資本が出現した段階である。そして、マルクスは『資本論』でそれを解明したのである。ただ、交換様式の観点からいえば、交換様式の接合としてある社会構成体が、産業資本が出現した時点でつぎのように変容したことに留意すべきである。すなわち、AやBは、Cの優位の下で消滅したのではなく、変形された。たとえば、Bは市民国家というかたちをとり、Aは“想像の共同体”としてネーションを形成する。いいかえれぼ、資本=ネーション=国家が形成されたのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)


マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない》とあるが、ある時期以降の柄谷が連発しているこの"高次元での回復"とはマルクスの次の記述からなんだな。


社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。


Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)


ーーすなわち氏族社会[alten Gentes]の高次元での回復[Wiederbelebung in höherer Form ]。


もうひとつモーガンの『古代社会』に触れている柄谷の記述を掲げておこう。

 彼は最晩年に、モーガンの『古代社会』を称賛して氏族社会に関して論じたとき、生産様式を持ち出さなかった。マルクスが注目したのは、氏族社会にお ける経済的平等性よりも、個々人の自由・独立性です。 《イロクォイ族の氏族の すべての成員は、人格的に自由であり、相互に自由をまもりあう義務があった。 特権と人的権利においては平等で、サケマや首長たちは、何らの優越も主張し なかった。それは血族の紐帯によって結びつけられた兄弟団体であった。自由、 平等および友愛は、かつて成文化されたことはなかったとはいえ、氏族の根本原理であった》 (マルクス「モーガン『古代社会』摘要」全集別巻4、p405)。 


 では、氏族社会における自由、平等、友愛という原理はどこから来るのか。それは、生産様式や共同所有というようなことでは説明できません。マルクスはそれについて論じていませんが、私の考えでは、それは互酬交換の原理からくるのであり、そして、それが氏族社会を規制する経済的ベースなのです。さらに、マルクスは未来の共産主義を、氏族社会の原理の「高次元での回復」であると述べました。それは、彼が未来の共産主義を、たんに生産様式の発展した状態として見なかったことを意味します。そう明示したわけではないが、マルクスは、未来の共産主義も交換様式から見るべきだということを示唆したということができます。(柄谷行人「交換様式論入門」2017年)



一般にこの「高次元での回復」をフロイトの抑圧されたものの回帰(あるいは反復強迫)に結びつけた柄谷の論理展開に疑義を呈する読者が多いようだが、ここではフロイトは過去の回復[Wiederherstellungen des Vergangenen]とは言っていることだけをつけ加えておこう。



先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の回復、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。

Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   (フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung)


忘れられたものの回帰[Wiederkehren des Vergessenen]とあるが、これが抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]である。


忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである。Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)



とはいえフロイトにおいて「高次元での回復」に相当するものはない。あるのは原初の出来事に対する歪曲されての回帰である。

症状形成の全ての現象は「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる。だが、それらの際立った特徴は、原初の出来事と比較して、回帰したものが広範囲にわたる歪曲を受けていることである。

Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. Ihr auszeichnender Charakter ist aber die weitgehende Entstellung, die das Wiederkehrende im Vergleich zum Ursprünglichen erfahren hat. (フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)


この歪曲は代理満足を意味する。

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している。die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs. (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)

症状は、生において喪われているものの代わりの代理満足として適切に捉えることができる。Die Symptome sind dann erst recht als Ersatzbefriedigung für die im Leben vermißte zu verstehen. (フロイト『精神分析入門』第19講「抵抗と抑圧」1917年)



この代理満足としての症状は、ラカン派においては原初の出来事(身体の出来事)の隠喩である。



症状は隠喩である[le symptôme est métaphore]  (J.-A. MILLER, L'ÊTRE ET L'UN, 09/03/2011)

われわれは隠喩を身体の出来事の形式的覆いとする[la métaphore nous donne l’enveloppe formelle de l’événement de corps. ](J.-A. MILLER, L’inconscient et le corps parlant, 2014)