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2024年3月13日水曜日

きみたちはなぜそうありうるのか

 


ルソーやフロイトは憐れみあるいは同情(共感)は同一化によって生まれると言ったがね、


私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)

同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


これは逆に、人は同一化しなかったら憐れみや同情を感じないということだ。

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


要するに他人の自我に類似点を見い出せないときは同一化しない。つまり憐れんだり同情しない。


ルソーにおける同情の三つの格率[Trois maximes( la commisération)]は次のものだ。

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

PREMIÈRE MAXIME 

Il n'est pas dans le cœur humain de se mettre à la place des gens qui sont plus heureux que nous, mais seulement de ceux qui sont plus à plaindre.


【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

DEUXIÈME MAXIME 

On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.


【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

TROISIÈME MAXIME 

La pitié qu'on a du mal d'autrui ne se mesure pas sur la quantité de ce mal, mais sur le sentiment qu'on prête à ceux qui le souffrent.

(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)


このルソーの格率、特に第二の格率を「仮に」受け入れるなら、他人の不幸を見てもそれを免られると感じたら、憐れまないということになる。


で、どうだい、そこのきみたちよ。この5ヶ月のあいだのガザホロコースを見ても平然としていられるきみたちだよ。きみたちのはこれかい?


ボクはね、涼しい顔していられるきみたちが不思議でならないから、いまこうやって問うているんだけどさ。ドウダイ? たんに想像力の欠如の問題としてでは片付けたくないんだ。



ま、もちろんエゴイズムの問題もあるだろうけどさ。例えばヴェイユのいうエゴイズムだ。

一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )


《隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら》云々とあるけど、もちろんこれだけでなく、自分のことにひどく忙しかったら他人に同情しないってことはあるかもな、例えば女にひどく惚れ込んでたら、ガザジェノサイドなんてどうでもよくなるさ、

愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person,]〔・・・〕すなわち愛はエゴイズムである[Liebe …Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)


これだったら許してやるよ、涼しい顔してても。それと病人のエゴイズムってのもあって、これは許さざるを得ない。


器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


いやあ、ボクはきみたちのことにひどく心を配ってんだよ、なんでそうありうるのかと。ナボコフみたいにして煙草をふかしながら。


彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。(ナボコフ『賜物』)


涼しい顔のきみたちをたんに罵倒するなんてことはしたくないからな、このナボコフの態度も同一化の一種だろうよ。


もっともボクはこっちのほうに同一化するのに忙しいがね



▶︎動画


同一化は感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。症状形成の条件の下、つまり抑圧と無意識のメカニズムの支配の下では、対象選択が同一化に退却する、つまり自我は対象の特性を身につけることはしばしば起こる。


die Identifizierung die früheste und ursprünglichste Form der Gefühlsbindung ist; unter den Verhältnissen der Symptombildung, also der Verdrängung, und der Herrschaft der Mechanismen des Unbewußten kommt es oft vor, daß die Objektwahl wieder zur Identifizierung wird, also das Ich die Eigenschaften des Objektes an sich nimmt. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)