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2024年3月16日土曜日

ヒトには不快な身体と妄想の言語しかない

 


先の投稿「自己非難のノックの声の投影」で示したフロイトの「パラノイアにおける投射の一般化」は、妄想の一般化だよ。パラノイアってのは妄想者なんだから。


夢だって投射だ。

夢は投射である。つまり内的過程の外在化である[Ein Traum ist also auch eine Projektion, eine Veräußerlichung eines inneren Vorganges. ](フロイト『夢理論へのメタ心理学的補足』1917年)


だいたいラカンの「人はみな妄想する」はフロイトの夢に依拠してんだからさ、

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


つまりは「人はみな妄想する」=「人はみな投射する」だよ、ある意味、当たり前のことさ。前段の「人はみな狂ってる」というのは、ラカンのちょっとしたレトリックさ。


フロイトは次のように言いつつ、ーー

パラノイアにおける症状形成の最も顕著な特徴は、投射の名に相応しい過程である。内的な知覚が抑制され、その代わりに、その内容がある種の歪曲を受けた後、外的な知覚という形で意識に入り込む。An der Symptombildung bei Paranoia ist vor allem jener Zug auffällig, der die Benennung Projektion verdient. Eine innere Wahrnehmung wird unterdrückt, und zum Ersatz für sie kommt ihr Inhalt, nachdem er eine gewisse Entstellung erfahren hat, als Wahrnehmung von außen zum Bewußtsein. (フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


そしてこう投射を一般化してるんだから。

ある感覚の原因を、他の場合のように、自分の内部に求めるのではなく、外界に求めるとき、この正常な過程も投射と呼ぶに値する。したがって投射の本質の問題には、より一般的な心理学的問題が含まれていることを認識させられる。

Wenn wir die Ursachen gewisser Sinnesempfindungen nicht wie die anderer in uns selbst suchen, sondern sie nach außen verlegen, so verdient auch dieser normale Vorgang den Namen einer Projektion. So aufmerksam geworden, daß es sich beim Verständnis der Projektion um allgemeinere psychologische Probleme handelt (フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)


つまり妄想は単なる症状であり、内的知覚の再構成の試みだね。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. ](フロイト「シュレーバー症例」 『自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』第3章、1911年)


で、内的知覚に対する防衛としての症状形成は、より具体的には、内的不安に対する投射(投影)だ、

すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


こんなものは誰にでもある、《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )ーーつまり、妄想なき主体はない、投射なき主体はない、だ。


巷間で使われる「妄想」という言葉とのギャップがあるから「人みな妄想」は一般には奇妙に思われるだけで、フロイトの定義においてはごく当たり前のことだよ。この今、ボクが書いていること自体、何ものかの内的不安に対する防衛としての妄想あるいは投影だろうよ、きみたちの書き物と同様に。


この不安は不快であり、主に欲動の身体の内的不快だ。

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

不快な性質をもった身体感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)



人はみな不快な欲動の身体抱えてるんだから、妄想するんだよ。つまりヒトには不快な身体と妄想の言語しかない。



私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


つまり言語は妄想だ。

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage」(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)




不快な身体は通常は抑圧されているがね


抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年)


でも必ず回帰するんだ、既に大昔にホラティウスが言っているように。

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや回帰する[Naturam expellas furca, tamen usque recurret  ](ホラティウス Horatius, Epistles)


無理に追い出すと過妄想になるぜ、つまり豚になるよ。

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない。nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)

悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)


どうもそこのキミには豚の臭いがするんだな、気ノセイカネ