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2024年3月15日金曜日

神秘的観想の時

 

要するに、前回の「自己非難のノックの声の投影」は、例えば「きみたちはなぜそうありうるのか」で記したことの反動だよ。ま、「きみたち」がガザジェノサイドに無関心でもやむ得ないな。そういうことが言いたかったんだ。

ボクも若い頃はそのたぐいの世界の出来事にまったく無関心だったからな、少なくとも30歳前後までは。自らを振り返ってきみたちを挑発し続けてもムダだと悟ったと言ってもいいさ。


ボクだって当時関心があったのは身近なことだけさ、とくに女のことだね。

女性の多い職場に勤めたからな、いや、若いピチピチした女性の多い職場を選んで就職したんだ。で、たいしてモテるほうではなかったが、それでもモテ期ってのはあってさ。


しかし当時のぼくの生活はとても波乱に満ちたものだった …ほんとうにめちゃくちゃだった …放蕩? そのとおり! ひっきりなしだ …午後、夕方、夜…同時に、三、四人との関係、行きずり、娼婦、なんでもござれ、乱れた暮らし …信じられないくらいの無頓着、やりたい放題やったのだから悔いはない …バー… いくつかの特別の施設 …


…女漁り …ぼくはいつもこの上なく若々しかった …結局、男たちが五十や六十で苦労して知ることを、ぼくは二十か三十でやってしまった …彼らは、わざとらしい気難しさから輝きのないゆるんだ衰弱へと進歩するが、ぼくの方は、気違いじみた放蕩から神秘的観想へと移る …人それぞれに道がある…(ソレルス『女たち』)


というところまでは行っていないが、そうであってもひどい女漁りをしたのは紛いようがないね、で、前期高齢者の年齢に入った現在はいくらか神秘的観想の時なんだ。スマナカッタネ


おい、でもやっぱり挑発し続けるぜ、ワカッテルダロウナ?!


ところで「神秘的観想の時」でも女に惚れるのは変わりがないんだ。でも放蕩時代とは異なりいま惚れるのは、母なる大地のかおりのするビサーンみたいなタイプだね



▶︎動画




ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ]


すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。


そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)



破壊者としての女というのは言い過ぎであるにしろ、母なる大地、沈黙の死の女神に惚れるんだよ、「神秘的観想の時」において。