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2024年4月2日火曜日

クビ文化とイジメ文化

 

最近もキャンディス・オーウェンズ Candace Owensが言っているが、アメリカという国は、親イスラエルの立場を明確に取らないと、主流メディアのジャーナリストは職を失うし、政治家は選挙で落ちるんだよな(主にイスラエルロビー支援による強力な対立候補設置のせいで)。





少し前、ハーバード大学長クローディン・ゲイ Claudine Gayが親パレスチナの立場を表明したせいでクビになったという話があったが。





大学だけでなく米国の制度自体が「軍産複合体とその企業ロビー」に乗っ取られているんだろうよ、ジェフリーサックスが言ってるように。



◾️アジア太平洋NATO:戦争の炎をあおる ジェフリー・サックス 2023年7月10日

An Asia-Pacific NATO: Fanning the Flames of War   Jeffrey Sachs July 10, 2023

世界は狂ってしまったが、特にアングロ・サクソンの世界が心配だ。〔・・・〕

今、私たちの国の政治には、深く落胆させられるものがある。その深い狂気とは、米国に引き継がれた大英帝国の思考だと思う。私の国、アメリカは、20年前、30年前と比べても、いまや見分けがつかない。実のところ、誰がこの国を動かしているのかよくわからない。今のアメリカ大統領がそうだとは思えない。私たちは将軍たちによって、安全保障機構によって運営されている。国民には何も知らされない。外交政策について語られる嘘は、もうほとんど聞くことも読むこともできない主流メディアによって毎日、蔓延している。『ニューヨーク・タイムズ』、『ワシントン・ポスト』、『ウォール・ストリート・ジャーナル』、そして主要テレビ局は、日ごとに政府のプロパガンダを100%繰り返しており、それを打破することはほとんど不可能だ。

軍産複合体とその企業ロビーは、私が教えている東海岸の大学を乗っ取っている。私はハーバード大学で20年以上教え、現在はコロンビア大学で教えている。大学における情報機関の影響力は、私の経験では前例がない。  これらはすべて、あまり世間に知られることなく、ほとんどサイレント・クーデターのように起こっている。  議論もなく、公の政治もなく、正直さもなく、文書も公開されていない。すべてが秘密であり、機密であり、少しミステリアスである。  私はたまたま世界中の国家元首や閣僚と関わる経済学者であるため、公式の「物語」や蔓延する嘘を突き通すのに役立つ多くのことを聞き、多くのことを目にしている。




とはいえこれは、日本でも似たようなことがあったこの3年だったな、反ワクや反ウクライナの立場を取ると「集団いじめ」にあうとかさ。とくに大学の世界ではそうだったのだろうけど、大半の職場でも事実上そうだったのではないか。クビにならないだけマシかもしれないが、その陰湿さは実に日本的だね。で、大勢が「なさざるの共犯者」になったのさ。



意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。


一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。


そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。


二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。

いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的にあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。


日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(中井久夫「意地の場について」初出1987年『記憶の肖像』所収)



これは、1987年に書かれた中井久夫の日本文化論のひとつだが、40年近くたった今でもまだ生きているんじゃないかね、十全に。


こう書いていて思い出したが、例の呉座勇一の件も紛いようもなく集団いじめーー集団リンチーーだった。

ITOH Tamitake  @silver_plasmon 2021年11月4日

確かにこの件は呉座勇一氏への集団リンチという表現が最も合っている。そういう陰湿な印象を連名者の1300人の人達はこれから背負うだろう。しかし最も残念なのは、リンチの凄まじさを見て日文研が保身のために呉座氏を排除したこと。裁判でその報いを受けるだろう。最初は子供の口喧嘩程度だったのに、

戯画兎 @giga_frog

 オープンレターが私刑(リンチ)だったいう指摘。

陰口を叩かれたことの報復で、表で賛同者を募っていじめた。署名は相手が個人では敵わない権力の場合に使うもので、一個人を狙うのはやりすぎ。日本の集団いじめの縮図みたいな話だ。

雁琳(がんりん)@ganrim_

「言い逃げ」的なネット文化を脱するために:呉座勇一氏の日文研「解職」訴訟から考える② https://agora-web.jp/archives/2053753.html…  與那覇さん仰るように、あのオープンレターは明らかな示威行動も含むネットリンチ(「私的な報復」)。一方的な攻撃の「言い逃げ」をやったのは呉座さんではなく署名した者達だ。