「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』) |
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キミ、僕は何度も言ってきたつもりだがな、日本言論界の「享楽」はデタラメだよ
訳語というのはいったん訳してしまうとその漢字表象に囚われてしまうもので、フロイトの抑圧[Verdrängung]という不幸な訳語ーー参照「抑圧は誤訳」ーーがあるように、ラカンの享楽[jouissance]も不幸な訳語だ。 |
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するためにフランス語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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たとえば女性の享楽[la jouissance féminine]、身体の享楽[la jouissance du corps]は、それぞれ女性のリビドー、身体のリビドーなのであって、こうすれば無駄なーーある意味でロマンチックなーー解釈は生まれことが少なかっただろう。ほかにも日本には、現代思想に関わる売れっ子批評家が、「享楽」という語を唖然とせざるを得ない誤謬に満ちた反リビドー的な使い方をして平然としているが、あのハシタナサはどうしてアリウルンダロ? とはいえリビドーも一般には意味不明の語であるにちがいない。 |
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リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年) |
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すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
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これだって容易にはわからない。なんだい、リビドー=欲動=エロスって? もともと独語TriebはTreiben(駆り立てる)から来ている。エロスの駆り立てる力、これがリビドーである。 この愛の駆り立てる力をフロイトは性欲動と呼んだ。 |
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哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕 この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。 Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
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おそらくラカンの享楽がフロイトの性欲動であることを認知している人は、一般には少ないのではないか(この性欲動自体「性器欲動」と見做す人がいるので厄介だが、《「性的」概念と「性器的」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器とは全く関係がない多くの活動を含んでいる[Es ist notwendig, zwischen den Begriffen sexuell und genital scharf zu unterscheiden. Der erstere ist der weitere Begriff und umfasst viele Tätigkeiten, die mit den Genitalien nichts zu tun haben]》(フロイト『精神分析概説』第3章、1939年))。 |
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さらにフロイトはこの性欲動としてのリビドーについて次のように言っている。 |
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不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年) |
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この不安とはトラウマかつ対象の喪失に関わる。 |
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
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より具体的には愛の喪失に対する不安である。 |
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寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年) |
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フロイトにとってリビドーなる愛の駆り立てる力は、事実上トラウマなのである。すなわち愛はトラウマの審級にある(なおラカンの《愛はナルシシズム[ l'amour c'est le narcissisme ]》(Lacan, S15, 10 Janvier 1968)であり、ここでのリアルな愛のトラウマとは異なり、フロイトの自己愛[Selbstliebe]に相当するので注意)。 |
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さてトラウマ的リビドー、これがラカンが穴用語を使って言っていることである。 |
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享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
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リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
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享楽=欲動=リビドーであり、すべて穴に関わる。そして、《剰余享楽の動機がある。つまり愛は穴を穴埋めする[Il y a là le ressort du plus-de-jouir. … l'amour bouche le trou.]. (Lacan, S21, 18 Décembre 1973)ーー先に示したようにラカンの《愛はナルシシズム[ l'amour c'est le narcissisme ]》(Lacan, S15, 10 Janvier 1968)であり、「ナルシシズムは穴を穴埋めする」のである。そして文脈上はっきりしているように剰余享楽自体穴埋めである。 では穴とは? |
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現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
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穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
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すなわちトラウマ的喪失であり、これが先のフロイトのリビドーの事実上の定義「不安=トラウマ=喪失」である。 …………………
ーーとはいえ、である。フロイトの「抑圧」がもはや変えようがないのと同じように、ラカンの「享楽」ももはや変えようがないだろう。これは日本の精神分析業界の大きな不幸にほかならない。 |