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2024年7月10日水曜日

働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる

 ははあ・・・

Alzhacker @Alzhacker Jul 10, 2024


司会者 36:25

ボイル教授、最後の質問をさせてください。これは本当に難しい質問です。世界の人口を現在のレベルから減らそうとする試みがあるという見方があります。もしそれに何らかの真実があるとすれば、アイルランドのジャガイモ飢饉 (マルサスの人口論に影響された英政府が十分な救援を行わず人口の12~18%が死亡)と何か類似点があるでしょうか。


フランシス・ボイル教授:

ビル・ゲイツはこれら全てに資金を提供しており、彼は有名な優生学者で、人口を削減する必要があると公言しています。COVIDパンデミックとフランケンシュタインのワクチンを合わせると、今のところ2000万人が死亡したという推定があります。ゲイツなどの人々から見れば、それは良いスタートだと思うでしょう。世界経済フォーラムのような連中も同じです。2000万人の死者は良い出発点なのです。


さらに、誰が死んでいるかの人口統計を見ると、主に高齢者です。それは経済的に有利なのです。社会保障や年金、医療費などがなくなります。もはやこれらの人々にお金を払う必要がなくなるのです。COVID-19は高齢になるほど致死率が高くなります。文字通り高齢者人口を一掃しているのです。

動画



《誰が死んでいるかの人口統計を見ると、主に高齢者です。それは経済的に有利なのです。社会保障や年金、医療費などがなくなります。もはやこれらの人々にお金を払う必要がなくなるのです》(Harvard Professor Francis A. Boyle) だってよ。



ちょうど一月前、次のように中井久夫を引用しつつ似たような事を記したところだけどさ。


……………


ひょっとすると、多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。各国最近の医療制度改革の本音は経費節約である。数年前わが国のある大蔵大臣が「国民が年金年齢に達した途端に死んでくれたら大蔵省は助かる」と放言し私は眼を丸くしたが誰も問題にしなかった。(中井久夫「医学部というところ」書き下ろし1995年『家族の肖像』所収)

二〇世紀には今までになかったことが起こっている。〔・・・〕百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。


しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)

地球から見れば、ヒトは病原菌であろう。しかし、この新参者はますます病原菌らしくなってゆくところが他と違う。お金でも物でも爆発的に増やす傾向がますます強まる。(中井久夫「ヒトの歴史と格差社会」初出2006年『日時計の影』所収)



ま、20世紀はとんでもない世紀だったんだよ。





で、とくにこの3年間、ヒトなる病原菌に対して、《「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをする》現象が赤裸々に顕れたんじゃないかね。


……………




そこでは渡辺美智雄ーー発言当時は大蔵大臣ではなく通産大臣ーーの言葉は今まで何度も引用してきたので掲げなかったが、ここでは再掲しておこう。


「二十一世紀は灰色の世界、なぜならば、働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって、稼ぐことのできない人が、税金を使う話をする資格がないの、最初から」、こう言ったわけであります。渡辺通産大臣は、それ以外にも、八三年の十一月二十四日には、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」、こう言っておられます。(第104回国会 大蔵委員会 第7号 昭和六十一年三月六日(木曜日) 委員長 小泉純一郎君……)


国家運営がビジネスであったら当然こういった発想が生まれるだろうね、とくに「主人はマネー」の時代には。


あるいは道徳的判断を括弧入れするマキャベリストだったら間違いなくミッチー思考だな。

近代科学は、道徳的・美的な判断を括弧に入れるところに存在する。そのとき、はじめて「対象」があらわれるのだ。しかし、それは自然科学だけではない。マキャベリが近代政治学の祖となったのは、道徳を括弧に入れることによって政治を考察したからである。重要なのは、ほかならぬ道徳に関してもそういえるということである。道徳的領域はそれ自体で存在するのではない、われわれは物事を判断するとき、認識的(真か偽か)、道徳的(善か悪か)、そして、美的(快か不快か)という、少なくとも三つの判断を同時にもつ。それらは混じり合っていて、截然と区別されない。その場合、科学者は、道徳的あるいは美的判断を括弧に入れて事物を見るだろう。その時にのみ、認識の「対象」が存在する。美的判断においては、事物が虚構であるとか悪であるとかいった面が括弧に入れられる。そして、そのとき、芸術的対象が出現する。だが、それは自然になされるのではない。人はそのように括弧に入れることを「命じられる」のだ。しかし、それになれてしまうと、括弧に入れたこと自体を忘れてしまい、あたかも科学的対象、美的対象がそれ自体存在するかのように考えてしまう。道徳的領域に関しても同じである。(柄谷行人『トランスクリティーク ーーカントとマルクスーー』第一部・第3章「Transcritique」、2001年)


※より詳しくは▶︎「柄谷行人=カントの「括弧入れ=無関心」」


マキャベリやマキャベリに強い影響を受けたニーチェは残酷の悪評高いチュザレ・ボルジアの事例をしばしば挙げているが、確かに道徳的判断を括弧入れして認識的判断に徹したときはじめて真の危機を救う場合がある。


たとえばチューザレ・ボルジアは、残酷な人物とみられていた。しかし、この彼の残酷さがロマーニャの秩序を回復し、この地方を統一し、平和と忠誠を守らせる結果となったのである。とすると、よく考えれば、フィレンツェ市民が、冷酷非道の悪名を避けようとして、ついにピストイアの崩壊に腕をこまねいていたのにくらべれば、ボルジアのほうがずっと憐れみぶかかったことが知れる。したがって、君主たる者は、自分の臣民を結束させ、忠誠を守らすためには、残酷だという悪評をすこしも気にかけてはならない。というのは、あまりに憐れみぶかくて、混乱状態をまねき、やがて殺戮や略奪を横行させる君主にくらべれば、残酷な君主は、ごくたまの恩情がある行ないだけで、ずっと憐れみぶかいとみられるからである。また、後者においては、君主がくだす裁決が、ただ一個人を傷つけるだけですむのに対して、前者のばあいは、国民全体を傷つけることになるからである。(マキャベリ『君主論』)



最後に二人の名高い政治学者の言葉を掲げておこう。

人道を口にする者は詐欺師である[Wer Menschheit sagt will betrügen](カール・シュミット『政治的なものの概念』Carl Schmitt, Der Begriff des Polotischen, 1932)

道徳問題を憂慮するものは、不穏な侵入者である[Any one who worries about moral problems is a kind of disturbing intruder](モーゲンソー講義録ノートMorgenthau, University of Chicago, 1952)