キミはいろいろ訊いてくるけどな、まずは読めよ。ラカンやミレールが超自我についてどう言ってるのか。
◾️ラカン全セミネール(音声聞取り版)➤STAFERLA |
◾️ミレールセミネール(1981- 2011年)➤L’orientation lacanienne: le cours de Jacques-Alain Miller |
私もすかし読みしかしていないがね、でも主要概念は検索してその前後を読んだよ。超自我だったらその語で検索してさ。このやり方だったら、それほど時間はかからないよ。
もちろん前提としてのフロイトがあるけどさ。
◾️フロイト全英訳 ➤Freud - Complete Works, Ivan Smith 2000, 2007, 2010. All rights reserved. |
◾️フロイト主要独原文 ➤ FREUD Gesammelte Werke 1890 - 1939 |
すかし読みした範囲で言うが、ラカンは《鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性》だね。
フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。 |
フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年) |
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二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。 これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」1997年『アリアドネからの糸』所収) |
ーーフロイトは人間の全営為を精神分析ツールによって解釈しようと奮闘しているんだな、個人の病理だけでなく、文化共同体病理にも。現在のほとんどの精神科医にとっては我関せずの「戦争」もその典型的なひとつ。
話を戻せば、ジャック=アラン・ミレールの朋友ジャン=ルイ・ゴーの言い方なら、《ラカンは最も偉大なフロイディアンだった [Lacan a été le plus grand des freudiens]《( Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)だな。実際、ラカンがいなかったら、フロイトはいま以上に読まれていなくて、歴史の底に沈んでいただろうよ。「鋭利ながら細身にすぎる剣」も大いに役に立ったんだよ。
私は柄谷の超自我解釈を馬鹿にしてるつもりはないよ。でもやはり中途半端な読み方しかしていないのは歴然としているんだな。で、先の投稿を繰り返せば、「あまり自分勝手だよ、柄谷のフロイト料理は」ということにならざるを得ない。