なんだい、シリアでさっそく公開処刑があったようだな、で、皆さんやっぱり堪能してるのかい?
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」 |
Ἀλλ’, ἦν δ’ ἐγώ, ποτὲ ἀκούσας τι† πιστεύω τούτῳ· ὡς ἄρα Λεόντιος ὁ Ἀγλαΐωνος ἀνιὼν ἐκ Πειραιῶς ὑπὸ τὸ βόρειον τεῖχος ἐκτός, αἰσθόμενος νεκροὺς παρὰ τῷ δημίῳ κειμένους, ἅμα μὲν ἰδεῖν ἐπιθυμοῖ, ἅμα δὲ αὖ δυσχεραίνοι καὶ ἀποτρέποι ἑαυτόν, καὶ τέως μὲν μάχοιτό τε καὶ παρα καλύπτοιτο, κρατούμενος δ’ οὖν ὑπὸ τῆς ἐπιθυμίας, διελκύσας τοὺς ὀφθαλμούς, προσδραμὼν πρὸς τοὺς νεκρούς, “Ἰδοὺ ὑμῖν,” ἔφη, “ὦ κακοδαίμονες, ἐμπλήσθητε τοῦ καλοῦ θεάματος.” |
(プラトン『国家』439e -440a 藤沢令夫訳) |
ツイッター社交界の方々の興奮した様子を見ていると、やっぱり潜在的拷問者が表に現れたとしか言いようがないね、ーー《過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ[Public executions and tortures in the past were also attended by large numbers of people, (…) there is a potential torturer in most of us] 》(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)
ま、それが人間の本性というもんさ、 |
残酷ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか[bis zu welchem Grade die Grausamkeit die große Festfreude der älteren Menschheit ausmacht, ja als Ingredienz fast jeder ihrer Freuden zugemischt ist]、他方また、彼らの残酷に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「無関心な悪意」»uninteressierte Bosheit«(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》die sympathia malevolens)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。〔・・・〕 死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない[Jedenfalls ist es noch nicht zu lange her, daß man sich fürstliche Hochzeiten und Volksfeste größten Stils ohne Hinrichtungen, Folterungen oder etwa ein Auto-dafé nicht zu denken wußte, insgleichen keinen vornehmen Haushalt ohne Wesen, an denen man unbedenklich seine Bosheit und grausame Neckerei auslas-sen konnte ](ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年) |
しょうがないよ、キャベツ頭の美しい魂だけさ、すっとぼけているのは、ーー《通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭…[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫っかぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen ]》(ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕 「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年) |
お、噂の篠田英朗くんがなかなかいいこと言ってるじゃないか、
本人が自覚的だったらもっといいんだがね、上の練り上げられた言葉の反復自体、小粒の拷問の実践だということを。 |
人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残酷性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。 nur so viel gebe ich zu, dass jetzt die Grausamkeit sich verfeinert, und dass ihre älteren Formen von nun an wider den Geschmack gehen; aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年) |
戦争は、より後期に形成された文化的層をはぎ取り、われわれのなかにある原人間を再び出現させる[Krieg …Er streift uns die späteren Kulturauflagerungen ab und läßt den Urmenschen in uns wieder zum Vorschein kommen.](フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年) |
人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質である[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind](フロイト『戦争と死に関する時評』, 1915年) |
つまり抑圧されたメフィストフェレスの回帰は避け難いね、 |
悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年) |
抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
これが篠田英朗くんの云う「人間のサガ」というもんさ、例外はないんじゃないかね。
「聖女」と呼ばれた精神科医神谷美恵子さんーー彼女は美智子妃の1965年から1972年にかけての相談役でもあったーーは若き日の手記にこんなこと書いてるらしいがね[参照]。 |
蜘蛛のような私、妖しい魅力と毒とを持つ私が恐ろしい…ナイーヴで誠実な青年たちの血をすすって生きる雌ライオン - 私はそんな自分自身が恐ろしい。神様、許してください。(神谷美恵子、非公開の手記) |
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こんな女。母性型と妖婦型を持ち合せ、前者を聖にまでひきあげて見せる事によって人を次々と惹きつけて行く。そして自他共に苦ませる。しかし、結局一人づつとりあげては捨てて行く。迷惑なのはその「他」共。 私の内なる妖婦(ヴァンプ)を分析したら面白いだろうと思う。それは随分いろんなことを説明するだろう。みんなを化かす私の能力、みんなを陶酔させ、私を女神のようにかつがしめるあの妖しい魔力にどれほどエロスの力があずかっているかしれない。それを思うとげっそりする。 |
しかし一面私はたしかに自分のそうした力をエンジョイしている。あらゆる人間を征服しようとする気持ちがある。征服してもてあそぶのだ。 私の心は今ひくくひくくされている。私は才能と少しばかりの容姿-少なくとも母はこの点を常に強調する-の為に人から甘やかされ、損なわれた女だ。心は傲慢でわがままで冷酷である。そうして男をもてあそんでは投げ棄てる事ばかりくりかえしている。 自分の才能と容姿がのろわしい。平凡な心貧しき女であり度かった。(神谷美恵子、非公開の手記) |
聖女でもこうだ、というべきか、聖女だからこそこうなのだ、というべきかは保留しておくけど。
ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。 Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: (ニーチェ『反時代的考察』第二部「序文」) |
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でも小粒の悪しかもっていない人間は小粒の善しかなさないというのは一般定式だろうよ、
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。 まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。 |
Alles Böse traue ich dir zu: darum will ich von dir das Gute. Wahrlich, ich lachte oft der Schwächlinge, welche sich gut glauben, weil sie lahme Tatzen haben! |
(ニーチェ『ツァラトゥストラ第二部』「崇高な者たち」Von den Erhabenen ) |
というわけで、抑圧された悪魔の回帰が仮にない人間がいるとしたら、去勢された虚弱者だろうよ。