俗に知られているマルクス主義つまり共産主義は、悲惨な結果に終わった共産党の独裁だ。
マルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョア階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊意志が一般的たりうるということを意味しています。〔・・・〕 それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。 しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは、「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年) |
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周知のように、レーニンがいうプロレタリア独裁は共産党の独裁に帰結した。その結果、マルクス主義者もついにプロレタリア独裁という概念を放棄してしまった。だが、そのことが結局議会主義に帰着するのだとしたら、不毛というほかはない。プロレタリア独裁という誤解を生みやすいメタファーに固執する必要はないが、ここに重要な問題がふくまれていることを忘れるべきではない。マルクスがいう「プロレタリア独裁」は、いうまでもなく「ブルジョワ独裁」に対応する概念である。その場合、「ブルジョワ独裁」は議会制民主主義のことを意味している。絶対主義的専制を打倒してできた議会制民主主義こそブルジョワ独裁である。であるなら、マルクスがいう「プロレタリア独裁」が、ブルジョワ独裁以前の封建的専制や絶対主義的独裁に似たものに戻ることであるはずがない。ブルジョワ国家は独裁が再現されない仕組みを考えた。三権分立や無記名投票である。しかし、三権分立は事実上有名無実である。それはただ、市民社会と政治的国家の二重化を支える原理でしかない。一方、「プロレタリア独裁」は、独裁どころか、国家権力そのものを廃棄することを目指すものだ。したがって、それは、ブルジョワ国家以上に権力の固定化に対して敏感でなければならない。 (柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章「移動と批判」2001年) |
今どきマルクスを正面から読む者など殆ど皆無だから、共産主義についてはみな俗人だろうよ、これは最近のチョロい日本のマルクス主義者にさえ当て嵌まる。しょうがないね、この事態は。俗に知られている共産主義がキミたち俗人の共産主義の固定観念だろうよ。
私はこうやって何度も掲げてきたのだが、最近の連中はもはや「気合い」系のプロパガンダ的短文しか読まないからこれ自体ムダだろうがね、ま、でも貼り付けるだけだから再掲しとくさ。
マルクスは主としてプルードン派によってなされたパリ・コンミューンについて、つぎのようにいっている。《もし連合した協同組合組織諸団体 (united co-operative societies) が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、〝可能なる"共産主義以外の何であろう(『フランスの内乱』)。こうしたアソシエーションは、共同体と異なるだけでなく、国家集権的なものとも根本的に違っている。それはマルクスが「社会的」と呼んだものに対応するだろう。つまり、それはいったん共同体から出た者たちが結びつく形態なのだ。 コミュニズムとは、資本制経済において貨幣との交換によって実現される「社会的」諸関係を、「自由で平等な生産者たちのアソシエーション」、さらに諸アソシエーションのグローバルなアソシエーションに転換しようとするものである。 (柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章移動と批判 2001年) |
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彼らは叫ぶ。コミューンは、あらゆる文明の基礎である所有を廃止しようとしている、と!いかにも、諸君、コミューンは、多数者の労働を少数者の富と化する、あの階級所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、いまはもっぱら労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本とを、自由でアソーシエイトした労働のたんなる用具に変えることによって、個人的所有を真実にしようと望んだ。 |
Die Kommune, rufen sie aus, will das Eigentum, die Grundlage aller Zivilisation, abschaffen! Jawohl, meine Herren, die Kommune wollte jenes Klasseneigentum abschaffen, das die Arbeit der vielen in den Reichtum der wenigen verwandelt. Sie beabsichtigte die Enteignung der Enteigner. Sie wollte das individuelle Eigentum zu einer Wahrheit machen, indem sie die Produktionsmittel, den Erdboden und das Kapital, jetzt vor allem die Mittel zur Knechtung und Ausbeutung der Arbeit, in bloße Werkzeuge der freien und assoziierten Arbeit verwandelt. 〔・・・〕 |
もし協同組合的生産が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキーと周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム」以外の何であろう。 |
Wenn aber die genossenschaftliche Produktion nicht eitel Schein und Schwindel bleiben, wenn sie das kapitalistische System verdrängen, wenn die Gesamtheit der Genossenschaften die nationale Produktion nach einem gemeinsamen Plan regeln, sie damit unter ihre eigene Leitung nehmen und der beständigen Anarchie und den periodisch wiederkehrenden Konvulsionen, welche das unvermeidliche Schicksal der kapitalistischen Produktion sind, ein Ende machen soll – was wäre das andres, meine Herren, als der Kommunismus, der 'mögliche Kommunismus'? |
(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1871年) |
《個人的所有を真実なものにした》とあるが、これも俗に知られている共産主義とは異なり、マルクスは「個人的所有」を否定したわけではまったくない。否定したのは「私的所有」だ。 |
資本主義的な生産様式から生じた資本主義的な取得様式は、それゆえ資本主義的な私的所有[Privateigentum]は、自分の労働にもとづく、個人的な私的所有の第一の否定である。しかし、資本主義的な生産は、ある自然過程の必然性によって、それ自身の否定を生み出す。これは否定の否定である。この否定は私的所有を再建することはしないが、しかしたしかに、個人的所有[das individuelle Eigentum]を資本主義的な時代の成果ーーすなわち、すなわち、協業と、土地や労働そのものによって生産される生産手段の共同所有とを基礎とする、個人的所有をつくりだす。 |
Die aus der kapitalistischen Produktionsweise hervorgehende kapitalistische Aneignungsweise, daher das kapitalistische Privateigentum, ist die erste Negation des individuellen, auf eigne Arbeit gegründeten Privateigentums. Aber die kapitalistische Produktion erzeugt mit der Notwendigkeit eines Naturprozesses ihre eigne Negation. Es ist Negation der Negation. Diese stellt nicht das Privateigentum wieder her, wohl aber das individuelle Eigentum auf Grundlage der Errungenschaft der kapitalistischen Ära: |
(マルクス『資本論』第一巻第七篇第二四章) |
つまり不労所有を否定したのだ。 |
ここでマルクスが私的所有と個人的所有を区別したのは、何を意味するのか。近代的な私有権は、それに対して租税を払うということを代償に、絶対主義的国家によって与えられたものだ。私有はむしろ国有なのであり、逆にいえば、国有制こそ私有財産制なのである。それゆえに、私有財産の廃止=国有化と見なすことはまったくまちがっている。むしろ、私有財産の廃棄は国家の廃棄でなければならない。マルクスにとって、コミュニズムが新たな「個体的所有」の確立を意味したのは、彼がコミュニズムを生産協同組合のアソシエーションとして見ていたからである。 |
こうした考えは、明らかにプルードンの考えにもとづいている。若いマルクスが絶賛したプルードンの『所有とは何か』という著書は、「所有とは盗みである」という言葉で有名である。しかし、プルードンは所有一般を否定したのではない。彼が否定したのは、「不労収益権、すなわち働かずに利得する力」である。よって厳密には、彼は所持と所有を分ける。《所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、諸制度の一切を変えるだろう。諸君は地上の悪を除きるのだ!》(『所有とは何か』「プルードン」 3、 長谷川進・江口幹訳、三一書房)。さらに、彼は「不労収益」を封建的収奪と同一視したのではない。むしろ、彼のいう「不労収益」とは、資本制生産に固有のものである。たとえば、個々の労働者は資本家から労働に対して賃金を支払われるが、彼らの協業、すなわち「集合力」によって得られる利益の増加分は、資本家によって奪われる。 アダム・スミスはこれを正当な利潤の源泉と見なしたが、プルードンはそれを「盗み」と呼んだのである。すでにイギリスのリカード左派はそれを剰余価値と呼んでおり、そこから激しい政治的労働運動が生じた。それに対して、プルードンは政治的活動に反対し、 むしろ分業と協業によって生産力を上げながら同時にそれが「盗み」を生み出さないような、 労働合資会社を作ることを提唱した。そのような倫理―経済的な交換システムの拡大が、資本と国家を死滅させる、と。 (柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章移動と批判 p253~) |
この際もうひとついこうか、俗に知られていない共産主義について。
マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年) |
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社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。 Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes. ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher. (1880/81) |
柄谷行人は基本的な部分ではマルクスに実に忠実なんだよ、細部でのマルクス批判(吟味)はないではないが。
ここでマルチチュードなどというおバカなことを長年言ってきたアントニオ・ネグリの変節も掲げておこう。 |
マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018) |
なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018) |
いやあでも最近はこういった核心的文章群を列挙しても徒労感が募るばかりの気分になってるよ。