このブログを検索

2024年12月5日木曜日

非妥協的誠実さへのルサンチマン?

 



前回掲げたこの非妥協的誠実さが気に入らないのか、


その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)


そうかもな、でもこの中井久夫は次の柄谷行人とセットで読むべきだよ、

ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生(キム・ウチャン)は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。〔・・・〕


一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。


私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)



要するに、「非妥協=誠実=大胆=活動性」は欠点もあるんだよ。これ自体、150年前の次の福沢諭吉とともに読むべきかもよ。



およそ人間に不徳の筒条多しといえども、その交際に害あるものは怨望より大なるはなし。貪吝、奢侈、誹謗の類はいずれも不徳のいちじるしきものなれども、よくこれを吟味すれば、その働きの素質において不善なるにあらず。これを施すべき場所柄と、その強弱の度と、その向かうところの方角とによりて、不徳の名を免るることあり。


譬えば銭を好んで飽くことを知らざるを貪吝と言う。されども銭を好むは人の天性なれば、その天性に従いて十分にこれを満足せしめんとするもけっして咎むべきにあらず。ただ理外の銭を得んとしてその場所を誤り、銭を好むの心に限度なくして理の外に出で、銭を求むるの方向に迷うて理に反するときは、これを貪吝の不徳と名づくるのみ。ゆえに銭を好む心の働きを見て、直ちに不徳の名をくだすべからず。その徳と不徳との分界には一片の道理なるものありて、この分界の内にあるものはすなわちこれを節倹と言い、また経済と称して、まさに人間の勉むべき美徳の一ヵ条なり。


奢侈もまたかくのごとし。ただ身の分限を越ゆると否とによりて、徳不徳の名をくだすべきのみ。軽暖を着て安宅に居るを好むは人の性情なり。天理に従いてこの情欲を慰むるに、なんぞこれを不徳と言うべけんや。積んでよく散じ、散じて則を踰えざる者は、人間の美事と称すべきなり。


また誹謗と弁駁とその間に髪はつを容いるべからず。他人に曲を誣うるものを誹謗と言い、他人の惑いを解きてわが真理と思うところを弁ずるものを弁駁と名づく。ゆえに世にいまだ真実無妄の公道を発明せざるの間は、人の議論もまた、いずれを是としていずれを非とすべきやこれを定むべからず。是非いまだ定まらざるの間は仮りに世界の衆論をもって公道となすべしといえども、その衆論のあるところを明らかに知ることはなはだ易からず。ゆえに他人を誹謗する者を目して直ちにこれを不徳者と言うべからず。そのはたして誹謗なるか、または真の弁駁なるかを区別せんとするには、まず世界中の公道を求めざるべからず。


右のほか、驕傲と勇敢と、粗野と率直と、固陋と実着と、浮薄と穎敏と相対するがごとく、いずれもみな働きの場所と、強弱の度と、向かうところの方角とによりて、あるいは不徳ともなるべく、あるいは徳ともなるべきのみ。ひとり働きの素質においてまったく不徳の一方に偏し、場所にも方向にもかかわらずして不善の不善なる者は怨望の一ヵ条なり。怨望は働きの陰なるものにて、進んで取ることなく、他の有様によりて我に不平をいだき、我を顧みずして他人に多を求め、その不平を満足せしむるの術は、我を益するにあらずして他人を損ずるにあり。(福沢諭吉『学問のすすめ』1872年)



悪いのは怨望だけだと言ってるな、要するに嫉妬・ルサンチマンだよ。



社会の中に集合精神[esprit de corps]その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬[ursprünglichen Neid]から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義[Soziale Gerechtigkeit]の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求[Gleichheitsforderung]こそ社会的良心[sozialen Gewissens]と義務感 [Pflichtgefühls]の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)

ルサンチマン。おまえが悪い、おまえのせいだ……。投射的な非難と不平。私が弱く、不幸なのはおまえのせいだ。反動的な生は能動的な諸力を避けようとする[Le ressentiment : c'est ta faute, c'est ta faute... Accusation et récrimination projectives. C'est ta faute si je suis faible et malheureux.


反動的な作用は、「動かされる」ことをやめ、感じ取られたなにものかとなる。すなわち能動的なものに敵対して働く「ルサンチマン」となる。ひとは能動に「恥」をかかせようとする。生それ自身が非難され、その〈力〉から分離され、それが可能なことから切り離される。小羊はこう呟くのである。「私だって鷲がするようなことはなんでも、やろうと思えばできるはずだ。それなのに私は感心にも自分でそんなことはしないようにしている、だから鷲も私と同じようにしてもらいたい……」

La réaction devient quelque chose de senti, « ressentiment », qui s'exerce contre tout ce qui est actif. On fait « honte » à l'action : la vie elle-même est accusée, séparée de sa puissance, séparée de ce qu'elle peut. L'agneau dit : je pourrais faire tout ce que fait l'aigle, j'ai du mérite à m'en empêcher, que l'aigle fasse comme moi... (ドゥルーズ『ニーチェ』1965年)



問いは、鷲の韓国人に対する小羊日本人のルサンチマンというアスペクトがないかどうかだよ、どうだい、春風駘蕩たる列島で湿った言葉を交わし合い頷き合っていると、ーー《貴君が奴らの言葉だけを信頼していたら、ルサンチマンをもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか?…… Würden Sie ahnen, wenn Sie nur ihren Worten trauten, daß sie unter lauter Menschen des Ressentiment sind?...》(ニーチェ『道徳の系譜』1887年)ってのはないかい、それとも曖昧模糊たる日本人はこの機微に不感症かね?


もっとも猛禽は善良な仔羊を愛しているらしいから「安心」したらいいよ、

猛禽は幾らか憐憫の眼を向けながら、おそらく独り言を言うだろう、《俺たちは奴らを、あの善良な仔羊どもを毛ほども憎んでなんかいない。俺たちは奴らを愛してさえいる、柔らかい仔羊より旨いものはないからな》と。[daß die Raubvogel dazu ein wenig spöttisch blicken werden und vielleicht sich sagen: »wir sind ihnen gar nicht gram, diesen guten Lämmern, wir lieben sie sogar: nichts ist schmackhafter als ein zartes Lamm.« ](ニーチェ『道徳の系譜』第1論文13節、1887年)


………………


※追記


いまこう記してきて思い起こしたが、冒頭の「曖昧模糊・春風駘蕩」は、福沢諭吉の伝でいけば、「傍若無人・いじける」とともに読むべきかもしれないな、

「桜切るバカ、梅切らぬバカ」は植木育ての初歩中の初歩である。枝を切ると桜は弱るのである。しかし、桜の木を庭のまん中に植えるとどうなるだろうか。


地下水の潤沢な庭でさえあれば、桜は庭いっぱいに枝をひろげる。


そして、ひろげるだけならまだしも、その覆いかぶさる枝の傘の下には一木一草も生えない。それは桜の木が毒ガスを出して、他の植物を枯らすからだそうである。


この、わずかに苔だけが生える樹の下の暗い地表は、桜の実の腐りつぶれた残骸とおびただしい毛虫が被い尽くして、人が嫌い寄りつかない場所となってしまう。ただ、花見どきは、人が集まって下で無礼講を開く、それだけである。


切るといじける。だからといって、切らないでいると、どこまでも枝を伸ばし、そればかりか毒ガスを出して草一本生えなくし、誰にも嫌われる廃棄物だけをふんだんに降らせるーー、これも桜の一面である。


桜をめでるあまり、もともとあるべき山あいから移して、ちやほやしたのは、桜みずからのせいではなかったであろう。庭のまん中に生えてしまったのも桜の責任ではないかもしれない。隅っこに置けば、それは来る年ごとに道行く人にめでられる花になっただろう。しかし、庭の中央では傍若無人なのが桜である。しかも、いじめるとあわれっぽくいじける。


桜が、「放っておくと図に乗って縄張りをひろげ、その傘の下にあるものを枯らし、汚いものを降らせ、さりとて伸びるのを阻むといじけて哀れっぽく特殊事情を訴える」という象徴にもなりかねないことを時々思い出す必要があるのかもしれない。(中井久夫「桜は何の象徴か」初出1988年『記憶の肖像』所収)