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2025年1月12日日曜日

文明人はみな偽善者である

 


自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう[Naturam expellas furca, tamen usque recurret]  (ホラティウス Horatius, Epistles)



そこのキミは偽善者だな、つまり文明人だ。


文明社会は、善い行為を要求するが、その行為の基礎となっている欲動については意に介さない。そのためこの社会は、多くのひとびとを文明に服従させはしたが、といって彼らが本性から服従したわけではない。

Die Kulturgesellschaft, die die gute Handlung fordert und sich um die Triebbegründung derselben nicht kümmert, hat also eine große Zahl von Menschen zum Kulturgehorsam gewonnen, die dabei nicht ihrer Natur folgen.(…) 

文明の圧迫は、病的な結果をもたらすことこそないにしても、性格形成の不全を起こしたり、制止された諸欲動を一触即発の状態においたりする。このような状態の欲動は、しかるべき機会さえあれば、その充足へと爆発するものなのである。つねに規範通りに反応することを強いられている者は、その規範が彼の欲動諸傾向を表わしてない以上、心理学的に見れば分不相応の生き方をしているのであり、それゆえ客観的には偽善者とよばれてしかるべきである。ここで、その規範と欲動傾向との違いが、その人間にはっきり意識されていようといまいと、それは問題ではない。現在のわれわれの文明が、この種の偽善者をつくりあげることをひとかたならず助けていることは、否定しえない事実である。あえて主張するならば、現代文明はこのような偽善によって構築されており、ひとびとが心理学的真実に基づいて生きようと企てようものなら、その文明は広範囲における修正を余儀なくさせられるだろう。


Der sonstige Druck der Kultur zeitigt zwar keine pathologische Folgen, äußert sich aber in Charakterverbildungen und in der steten Bereitschaft der gehemmten Triebe, bei passender Gelegenheit zur Befriedigung durchzubrechen. Wer so genötigt wird, dauernd im Sinne von Vorschriften zu reagieren, die nicht der Ausdruck seiner Triebneigungen sind, der lebt, psychologisch verstanden, über seine Mittel und darf objektiv als Heuchler bezeichnet werden, gleichgiltig ob ihm diese Differenz klar bewußt worden ist oder nicht. Es ist unleugbar, daß unsere gegenwärtige Kultur die Ausbildung dieser Art von Heuchelei in außerordentlichem Umfange begünstigt. Man könnte die Behauptung wagen, sie sei auf solcher Heuchelei aufgebaut und müßte sich tiefgreifende Abänderungen gefallen lassen, wenn es die Menschen unternehmen würden, der psychologischen Wahrheit nachzuleben. 

(フロイト『戦争と死に関する時評』1915年)



自然的本性を追い払っても回帰するとはいえ、偽善者であることは当面とっても重要だよ。模範的人物だな、キミは。


人間の原始的、かつ野蛮で邪悪な衝動(欲動)は、どの個人においても消え去ったわけではなく、私たちの専門用語で言うなら、抑圧されているとはいえ依然として無意識の中に存在し、再び活性化する機会を待っています[die primitiven, wilden und bösen Impulse der Menschheit bei keinem einzelnen verschwunden sind, sondern noch fortbestehen, wenngleich verdrängt, im Unbewußten, wie wir in unserer Kunstsprache sagen, und auf die Anlässe warten, um sich wieder zu betätigen.](フロイト書簡、Brief an Frederik van Eeden、1915年)

人間のもっとも深い本質はもろもろの欲動活動にあり、この欲動活動は原始的性格をそなえていて、すべてのひとびとにおいて同質である[daß das tiefste Wesen des Menschen in Triebregungen besteht, die elementarer Natur, bei allen Menschen gleichartig sind](フロイト『戦争と死に関する時評』, 1915年)



でも注意することがないではないがね



悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)

世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない[nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue.  ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)



ま、そうは言っても今どきの日本では貴重な存在だよ。遠巻きにしつつ?敬意を払うよ。



柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)



ひとつだけお願いがあるんだ、豚の臭気を消してからコメントしてくれないか。ボクは臭いに敏感なタチでね。