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2025年1月13日月曜日

私は悲しい人。幸せになる唯一の方法は自分自身を忘れること



以下、私が最近惚れ込んでいるシャオメイのインタビュー記事である。

◾️シュ・シャオメイ:「バッハを演奏するときは決して止まらず、常に演奏し続けます。」

2015年8月21日 インタビュー

Zhu Xiao Mei: « When I play Bach I would never stop, I always keep going »

 21/08/2015  Interviews

あなたの自伝で「適切なテンポの探求は音楽の世界だけに限ったことではなく、人生でも探求しなければならない」と読んだことがあります。これはどういう意味ですか?


とても知的な質問ですが、簡単に答えましょう。良いテンポを見つけるには時間がかかります。5年間演奏すれば、見つけられるでしょう。これは非常に重要なことです。テンポが間違っていると、人々はついてきません。あなたは中立でなければなりません。そして、この探求は常に長いものになります。


しかし、この考えはあなたの演奏方法にどのように影響しますか?適切なテンポ、適切な色、適切なフレージングを見つけたら、毎晩、すべてのコンサートは同じですか?


実際にはそうではありません。白か黒かではなく、真実はその中間のどこかにあります。それは環境、コンサートホールによって異なります。小さければ、聴衆とコミュニケーションが取りやすくなります。しかし、変化はそれほど大きくありません。


つまり、聴衆はあなたにとって重要だということですね...


非常に重要です!多くの同僚は同意せず、「私は自分の感じたことを演奏する」と言うでしょう。しかし、聴衆のために演奏しないのであれば、家にいたほうがいいでしょう。聴衆の助けが必要なのです…


また、教えることは人々との関係を築く重要な方法だと!


私はそう思います。私たちは毎日一人で練習しますが、人々を説得する方法を学ばなければなりません。多くのミュージシャンは美しく演奏しますが、感情がありません。それは「通用」せず、人々は疲れ、退屈します…


あなたのキャリアは、主にバッハに集中していますが、あなたは「音楽人生」という表現を好むと思います。なぜでしょうか。


説明できないこともあります。音楽院で勉強していたとき、私は疲れ果てるまで 1 日に 5 ~ 6 時間演奏していましたが、最後の曲はいつもバッハでした。なぜなら、それが私にもっとエネルギーを与えてくれたからです。強制収容所にいたときも、生き続けるために、そして自分の尊厳と人間性を保つためにバッハを演奏しなければならないと感じていました。そして、バッハを演奏するときは決して止まらず、常に演奏し続けます。


あなたの本で見つけた別の一文は、「堅固で屈しない者は死の弟子であり、優しく従順な者は人生の弟子である」です。作曲を研究するときと、それを聴衆の前で演奏するとき、あなたはどの程度の自由を取りますか。前者は「堅固な」期間で、後者は「従順な」期間ですか。


これは私の言葉ではなく、中国の最も重要な哲学者である老子の言葉です。中国から出てきたとき、私は老子について何も知りませんでした。彼は毛沢東の赤本に載っていませんでした。私は新しい曲を6か月未満で練習することはありませんが、大きな曲の場合は少なくとも5年は必要です。私は才能があまりないかもしれませんが、たくさん練習しなければなりません。たとえば、ゴールドベルク変奏曲やフーガの技法でそうでした。


フーガの技法は「本物の音楽」ではなく、理論的なデモンストレーションだと思いませんか?


私も同意します。長い間、私はそれに触れたくありませんでしたし、理解していませんでした。しかし、それを研究したとき、時間こそがキーワードであることに気づきました。人生に対して寛大でなければならず、ゆっくりと、瞑想と精神性によって、それは自分の中に育っていくのです。私はとても感動し、まだ発展しなければならない感情を抱きました。公の場で演奏したのは5回だけで、人々を納得させるにはまだ長い道のりがあります。


未完成の作品であるという事実は、興味深いことでしょうか、それとも問題でしょうか。


完成していないのは素晴らしいことです。何も完成しない中国の哲学を思い出させます。おそらくバッハはわざとそうしたのでしょう。最後のフーガの冒頭で、私たちは何か特別なものを感じます。彼が完成させたくなかったからです。この意味で、私はいつも笑いながらこう言います。「バッハは仏教徒だ!」中国人が彼をとても愛しているのはそのためです。彼はすべての宗教、すべての国籍の人々のための存在です。


今後数年間でどのような音楽的アイデアを展開したいですか? 


バッハ、特にゴールドベルクをできるだけ多くの国(現在 25 か国)で、ビジネスマンから年金受給者、囚人、あらゆる宗教の人々まで、あらゆる人々の前で演奏したいです。そしてもちろん、中国でももっとバッハを演奏したいと思っています。前回中国に行ったのですが、素晴らしかったです。初めてコンサートに来た人がたくさんいましたが、ずっと沈黙していて、最後にはフーガの技法のレコードが 300 枚売れました!レコード会社から、こんなことは今までなかったと聞きました!


どのような意味でシューベルトに親近感を感じますか? 


平易な言葉だけで感動が湧き起こります。そのレベルに達した作曲家はほとんどいません。彼の音楽は平易で、まったく人工的ではありません。演奏するためには、自分をきれいにしなければなりません。


中国におけるクラシック音楽教育の発展をどのように見ていますか?


素晴らしいことです。ピアノを弾く人がたくさんいますが、一方でやるべきことがたくさんあります。通常、彼らは正しいテクニックだけを求め、大きな音で速く弾きたいのです。私たちはクラスメートと、誰がオクターブを速く弾けるか競争しました。でもそれは重要ではありません。人々に感動を与えなければなりません。


では、ラン・ラン、ユンディ、ユジャ・ワンといった有名な同胞についてはどう思いますか?


はい、彼らの才​​能は並外れています。たとえ今は彼らが技巧に主眼を置いているように見えても。でも、もしかしたら、彼らが年をとったら、これに飽きてしまうかもしれません!


バッハに会っていたら、何て言いましたか?


まず、中国とは何か、どこにあるのか説明します!(笑)それから、中国人が彼の音楽をどれだけ愛しているか、彼が困難な時代に私たちが生き残るのにどれだけ深く貢献してくれたかを伝えます。それから、私が彼の音楽を演奏するのを気に入っているか尋ねます!


レパートリーから1曲だけ残せるとしたら、どれを選びますか?


それは難しい質問です!シューベルトの「冬の旅」を挙げることもできますが、30年前に私を救い、今では私の一部となっているゴルトベルク変奏曲も忘れられません。それでも、モーツァルトやベートーベンを省くのは嫌です!泣いてしまいますが…はい、間違いなくゴルトベルクを選びます!


音楽家としての人生で、何百ものコンサートを演奏してきましたが、最も思い出深い、または成功したコンサートを覚えていますか?


それはいい質問ですね。たぶん、とても特別な感情(特に沈黙)を味わったのは 3 回だけです。最も特別なのはフランスの教会で、そこで祈りと演奏の間に特別なつながりを感じたことです。


一番後悔していることは何ですか? 


バッハの作品を全部弾けなかったことです。それが私の夢ですが、時間が足りないと思います。もう一つの夢は、中国に音楽学校を開いて、そこで演奏し、音楽とバッハを愛する方法を教えることです。


過去や未来に旅行できるとしたら、どこに「タイムマシン」を設置しますか? 


たぶん1980年、中国を出て、自由とは何か、世界が何を提供してくれるのかを学んだときです。また、家族に二度と会えなかったので、悲しい瞬間でもありました。


音楽が存在しなかったら、人生で何をしますか? 


画家になります。母が画家で、私も絵に心を動かされます。画家には利点もあります。画家は人々に何を見せているのか分かっていますが、ピアニストは分かりません!


あなたは幸せな人ですか? 


いいえ、私は悲しい人です。人と話しているときはそうではないかもしれませんが、心の中では暗いです。幸せになる唯一の方法は、おそらく自分自身を忘れることでしょう…

No, I’m a sad person; maybe not when I’m talking with people, but inside I’m rather dark. The only way of being happy, maybe, would be forgetting myself…





なお「強制収容所」とあるのは次の経緯がある[参照]。


 決して豊かではなかったが、清廉潔白な父と芸術を愛する母に温かく見守られシャオメイは幸せな幼年時代を送る。ピアノの才能を開花させ、10歳ですでにコンサートを開き、北京中央音楽学院に入学を許され、演奏家としての華々しいキャリアを積もうとしていた矢先に、毛沢東主導の「文化大革命」が始まる。これが人民や革命の大義に名を借りた、究極の嫌がらせと文化破壊だったことはいまでは周知の事実だが、幼いシャオメイにそんなことがわかるはずはない。周りで常態化する暴力の原因はすべて、自分たちのような「出身不好」、つまりブルジョア出身者にあると信じ込み、懸命にマオイズム(毛主義)に同化しようと努める。やがて「上山下郷」の掛け声のもと、北京のすべての芸術系の学生は農村に移住させられ、農民とともに衣食住と労働をともにするように命じられる。日の出から日没までひたすら農作業に従事し、夜は「告発と自己批判の会」。そんな毎日が続くうちに、人間の個性は摩滅し、意欲も希望も消えていく。若い音大生たちも、いままで自分が情熱を傾けていた西欧芸術がブルジョア的精神に他ならないと信じ込むようになり、「クラシック音楽はブルジョア芸術」「ベートーヴェンはエゴイスト」と自己批判をし、楽譜を焼き、学院は機能を失う。教師たちは紅衛兵に引きずり出され、学生の前にひざまづかされ、罵詈雑言を浴び、殴られ、蹴られ、墨汁をかけられて晒し者になる。それまでの恩師が便所掃除をさせられるのを、学生たちは冷ややかに見つめる。優れたピアニストが次々と自ら命を絶った。幼いシャオメイをいつも支えてくれた用務員の老人が「ブルジョアのスパイ」と名指され、構内で首をつった時、彼女は悲しみの中に、彼への憤りを感じさえする。それほどまでにマオイズムへの洗脳は完璧だったのだ。音楽教室は北京市内で虐殺された人びとの死体置き場になり、校内には死臭が充満する。こうした暴力への恐怖は、彼女に毛沢東への服従をますます強要する。「真の革命家はあらゆる感傷主義から顔を背けなければならない」と考え、家族への愛情を否定し、父を反革命分子として告発した。


  しかし「出身不好」者への弾圧はさらに加速した。やがて北京の芸術大学生は全員、内モンゴル張家口市の再教育収容所に強制移住させられる。そこでシャオメイは、「真の革命家への教育」が「白痴化」であることを知る。毎朝6時起床、行進、毛沢東語録を呪文のように朗読し、まったく作物の育つ見込みもない乾き切った土地を、来る日も来る日も凍るような寒風の中ツルハシで耕させられる。あっという間に生理もなくなり、病気になっても医者も呼ばれず放置された。落ちる士気を高めるために、あらゆる作業に「競争原理」が導入され、食事ですら、早い者勝ちになる。生き残るためには、友人の足を引っ張り、告発が日常茶飯事となる。日没まで疲労困憊するまで働き、夜の自己批判集会のあと、わずかな食事をとってようやく床につくことができるが、睡眠はたびたび深夜の避難訓練で中断され、一晩中山中を走らされた。こうした訓練をへてようやく人は白痴になり、真の革命家となる。14歳から19歳までが、ピアニストにとってどれほど貴重な時間であるかはいうまでもないだろう。それをシャオメイは、ピアノとはまったく無縁の農作業と洗脳教育に奪われた。
  病いに倒れ、生死の境をさまよい、奇跡的に回復した頃、文革も収束の兆しが見え始めた。彼女に突然ピアノへのやみがたい情熱が再燃する。「まさしく動物になり下がるぎりぎりのところまで追い詰められたその時に、揺り返しが訪れた。」「絶望の治療法は一つしかない。ピアノを弾くこと。」収容所を抜けだして、近くの村のピアノを弾きにいく。あるいは脱走して親元へ逃れ、ピアノを弾く。何度連れ戻されても舞い戻る。絶望の淵でシャオメイはピアノの真髄を、音楽院ででもコンサートホールでもなく、喝采とも名声とも無縁の極北の僻地で知る。 


「鍵盤は氷でできているようだった。それでも練習しようと試みる。強く、早く、確かに。そうすることでいくらか体が温まるのだ。でもしばらくすると、すっかり凍えて、中断せざるを得ない。そこで私は外へ出て、収容所の中庭を走って体を温めようとした。しかし、どうにもならない。その時、パン先生が言ったことを思い出した。「指を温める一番の方法は、バッハの〈平均律クラヴィーア曲集〉のフーガを弾くこと、ポリフォニーの各声部がはっきり聞き分けられるようにね。」私は嬰ハ短調の第四番と変ロ短調の二二番を際限なく弾き始めた。第一巻の中で五声のフーガはこの二曲だけで、前者だけで主題が三つある。瞑想的な音楽で、ポリフォニーは鉱物的な密度にまで到達している。その力強さと美しさを完全に表現するためには、手はしばしばやむなく一種の不動のような状態にならざるを得ないが、指に対しては最も優れたタッチ、それぞれの指の独立性、持続性、しなやかさ、そして息遣いが要求されるのだ。すぐにこの練習の有益な効果が感じられてきた。精神が落ち着き、エネルギーが指先にまで、それから全身へと循環していくのだ。音楽とは一種の不動性から生まれる。[・・・]私の中で、内面の力が少しずつ目覚めていった。しばしば運指は、運動機能よりもむしろ精神と関係があるのだということを、あの日、私は実感した。」(自伝173頁)



Zhu Xiao-Mei: How Bach Defeated Mao




彼女の自伝ーーZhu Xiao Mei"The Secret Piano: From Mao's Labor Camps to Bach's Goldberg Variations"ーーにはほかにも例えば次のような記述がある。


私はよく、毛沢東が私にしたことに対して彼を憎むべきかどうか考える。純粋に理論的なレベルでは、彼の分析は間違っていなかった。中国人は解放される必要があったのだ。学校で上映されたドキュメンタリーをどうして忘れられるでしょう。それは、イギリス人が外灘公園の入り口に立てた看板を映したものだった。そこには「犬と中国人は入場禁止」とはっきりと書かれていた。

I often wonder whether I should hate Mao Tse-Tung for what he did to me. On a purely theoretical level, his analyses were not incorrect. The Chinese people did need to be liberated. How could I forget the documentary they screened for us at school,, which showed the sign the English erected at the entrance to Waitan Park. On it was clearly written “Dogs and Chinese Not Admitted”


作品を演奏する前に、心を空虚にして、平穏な気持ちでいる必要がある。

中国人はこのようなものの見方をよく知っている。彼らはよく水のイメージを使ってそれを表現する。湖の底まで見通すには、水が静かでなければならない。水が静かであればあるほど、より深く見通すことができる。心についてもまったく同じことが言える。より穏やかで超然としていればいるあるほど、より深いところまで見通すことができる…この自己を捨てて空っぽになる道をたどることで、音楽作品の真実に到達するのだ。自分の意志を押し付けようとしたり、聴き手に何かを強要したりすることなく。自己と格闘することなく。作曲家の背後に姿を消すことで。

Before playing a work…I need to be peaceful, to empty my mind.

The Chinese are well acquainted with this way of seeing things; they often use the image of water to illustrate it. To see down to the bottom of a lake, the water must be calm and still. The calmer the water, the farther down one can see. The exact same thing is true for the mind – the more tranquil and detached one is, the greater the depths one can plumb….it is precisely by following this path of self-effacement and emptiness that one attains the truth of a musical work. Without attempting to impose one’s will, without forcing something on the listener. Without struggling with the self. By disappearing behind the composer.


今になってようやく、文化大革命の経験が、音楽の力を使って聴衆に何かを強制してはいけないことを私に教えてくれたのだと理解できるようになった。私は奴隷のくびきの下であまりにも苦しみ、強制するよりも話すことを好むのです。

Only now I am able to understand the extent to which my experience of the Cultural Revolution taught me to never use music’s power to impose anything on my audience. I suffered too much under the yoke of servitude, and I prefer to speak rather than to compel



……………


美の起源は傷である。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳)


愛の起源も傷である。


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir.] (プルースト「逃げ去る女」1925年死後出版、井上究一郎訳)


美の起源も愛の起源も傷つけることを止めないものである。


「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。[»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.](ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)


シュ・シャオメイはこの傷をしかと受け止め、その痛みを十全に表出させたピアニストであるだろう。


そこから独自の、静謐な祈りが生まれる。

私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年)