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2025年1月21日火曜日

廃墟となったおまんこ

 

幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


前回、嗅覚と聴覚を強調したがね。


嗅覚の起源はおまんこだよ、原幼児期に、つまり胎児期にあそこに九ヶ月も住んでいたんだからさ。

聴覚の起源だっておまんこだ、母の心音とか血流とかを絶えず浴びてたんだから。ヒトがアンダンテを好むのは心音がアンダンテだからだよ。


聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年)


いやアダージョだな。ボクの母はちょっと興奮気味のことが多かったからアンダンテ、ーーとくにフォーレのop 121 アンダンテーーを好むのだがね。



グールドのアダージョなんてモロ心音演奏だよ。あれを聞いて羊水に漂う気分にならないヤツの気がしれないね、


なにはともあれ嗅覚と聴覚の起源についてはこれは常識にしないとな、


ほかにも言語の起源だっておまんこだ。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


当たり前だろ、これ?

だから、ラカンの享楽の起源はおまんこだよ。

子宮内生活は、まったき享楽の原像である[La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite.]  (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)


ふつうに言われるラカンの享楽は斜線を引かれている、つまり喪われているんだがね、要するにフロイトの《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(『制止、症状、不安』第10章、1926年)だ。これを取り戻そうとする反復運動が標準的な意味での享楽だよ。



これはセミネールⅩⅦに明示されている。ここにある「廃墟となった享楽(jouissance ruineuse)」は「廃墟となったおまんこ」だ。

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。

ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]〔・・・〕

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.]〔・・・〕

享楽の対象は何か?[Objet de jouissance de qui ?]…

これが「大他者の享楽」を意味するのは確かだろうか? 確かにそうだ![Est-il sûr que cela veuille dire « jouissance de l'Autre » ? Certes !]…


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


享楽の対象としての喪われたモノは母なるモノであり、究極的には喪われたおまんこだよ。

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


これは最後のラカンまで変わらない。

ラカンは反復と喪われた対象との結びつきを常に強調した。…ラカンは根源的に喪われた対象をふたたび見出すための努力として反復を位置づけるのを止めなかった。

Lacan n'a jamais manqué de souligner le lien de la répétition à l'objet comme objet perdu (…) Il n'a pas cessé de situer la répétition comme un effort pour retrouver l'objet foncièrement perdu. (J.-A. Miller, « Transfert, répétition et réel sexuel.» 2010)



僕はしばしば谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」を引用してきたがね。あそこには人間の核心があまりにも見事に歌われている。つんぼの連中だけだよ、あれを冗談だと見なすのは。


ここではよく知られている「なんでもおまんこ」じゃなくて、「かわいそう」を掲げとくよ。




かわいそう  谷川俊太郎


わたしはともだちにうそをつくけど

おとなってじぶんにうそをつくのね

わたしはからだがちいさいけど

おとなってこころがちいさいのね

わたしはのはらであそびたいのに

おとなってほんとはおかあさんの

おなかのなかにもどりたいのね

それなのにおかあさんはもういない

おとなってこどもよりずっとずっと

かわいくてかわいそう



ワカルカイ、俊が核心を把握してたことが?


これを引用して思い出したが、家の起源だっておまんこだよ。


家は母胎の代用品である。最初の住まい、おそらく人間がいまなお渇望し、安全でとても居心地のよかった母胎の代用品である[das Wohnhaus ein Ersatz für den Mutterleib, die erste, wahrscheinlich noch immer ersehnte Behausung, in der man sicher war und sich so wohl fühlte. ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第3章、1930年)


居心地がいいってのかな、ちょっと狭いがね

でもヒトは本源的には狭いところがいいらしいよ、


(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」初出1993年『家族の深淵』所収)