バルトークの曲をきいていると、時どき私は、この人は、単に私たちの耳に聞こえない物音も聞きわける鋭敏な耳をもっていただけでなく、私たちが目でみることのできないものの姿も、早くから見る力をもっていたのではないかという気がしてくることがある。彼の音楽のなかにあるものは、迫ってくる危険に対し、いちはやく身がまえる野獣の姿勢を連想させないだろうか? (吉田秀和『私の好きな曲』-21-ベラ・バルトーク《夜の音楽》) |
ーーたしかに、バルトークのいくつかの曲には鳥肌が立つ、特に「夜の音楽」には。 次のアンドラーシュ・シフによる「夜の音楽」解説動画は、通した演奏はなく、断片ごとを演奏しつつの説明だが、まさに吉田秀和の言っているような感覚ーー《迫ってくる危険に対し、いちはやく身がまえる野獣の姿勢》ーーを私に与える(ひょっとして断片だからいっそうそうかもしれない)、▶︎Bartók: Out of Doors, IV. The Night‘s Music | Introduction by András Schiff 以下、吉田秀和が、バルトークの「夜の音楽」を評する中でアガサ・ファセットAgatha Fassettの《Naked Face of Genius: Bela Bartok's Last Years 》を引用している箇所。 |
ファセットの好意で、彼女の田舎の別荘にバルトーク夫妻が来ると、その夜、彼女が大切にしていた猫が姿を消してしまった。 「こんな人気もないところで、それに危険がいっぱいなのに、猫一匹どこにさがしに行ったらいいか、わかりっこないわ」ディッタは落胆していった。 真夜中ごろ、ディッタが起こしに来た。「ベラが、猫の鳴き声をきいたって言うの。あっちらしいんですって」と彼女は深い森の方をさした。私たちは窓をあけ耳を澄ました。しかし夜のしじまからは猫の声は聞こえなかった。 しかし彼女らは女中を入れて、三人で出かけてゆく。ディッタは、バルトークがきいたという以上、まちがいないと信じきっているので。急いで野原をつっきり、「暗闇が一直線になって森の入り口を示しているその外れで一休みした」。しかしいくら耳をそばだててみても何にも聞こえない。 家に入ると、バルトークが階上から呼んでいるのが聞こえた。「森の入口までいったけれど、何にも聞こえませんのよ」とディッタが報告した。 |
「そうだろうよ」バルトークはいった。「あんた方には聴くのも聞こえるのも同じことなんだから。三人の聲が暗い森をさまようなんて、何て頼りない救助隊だろう」 私たちはまだドアの前でうろうろしていたが、私としてはバルトークの中で起こった変化のことばっかり考えていた。今朝はまるでデスマスクみたいだった顔が、今は生き生きと内面から輝きわたっているのだ。 「あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい?」 私たちはできるだけ耳をすましてみたが、首を左右にふるばかりだった。 「今でも私にはきこえてる。一度なくたびに、休息が要るように、規則正しく間を置いてきこえるよ」 どうしたらよいのかしら? 「そう聲に聲の案内ができるはずがないから、私が起きて案内してあげなければならないだろうね」 〔・・・〕 |
こうして、今度は彼を先頭にして、みんなは真暗闇の野原を森に向かって進む…… 今度こそ、私たちもたしかに聞いた。鋭い風のかすかなトレモロほどの、音ともいえない音で、彼が力説しなければ、とても気づかなかっただろう。 バルトークは歩きやすい道をさけて、暗い木の闇の中に見えなくなった。 「こっちだ」自信ありげな呼び声だった。声は深く澄んでいた。私たちは、そちらに急いだ。 「ずいぶん近い。この木のどこかにいるはずだ」彼は高い楓の下にいた。 はげしい興奮にかられて、私たちは懐中電灯ですかしてみた。光は繁みのあいだをはいまわったのち、不意に葉を通して向こう側にいるルル(猫の名)をとらえた…… 「ルルは自分にふさわしい獲物をつかまえたんだ。巣ごもりの鳥を探していたにきまっている」 「そんなことあらませんわ。今まで鳥をとったことなんか一度もありませんもの」私は抗弁した。 「じゃ、眺めを楽しむため、こんな危険な綱渡りをしたっていうのかい? この次は、孤高をもともていたんだって、私を説得するつもりだろう。同情はしたいが、信じられない。これは自然にくりかえされる行動のパターンと同じなんだ。何千年もかかって飼いならされたものだって、獲物を追うことをあきらめきれないんだ。人間と同じで、彼はすべてを手に入れたいのさ」 |
ここに、バルトークがいる。そうして彼は、このあと、森の中に腰をおろすと、かがみこんで足下につもった松葉を手で掘るのだった。 「膝くらいつもっている。何百年もかかって堆積されたんだ。あなた方御婦人は、こういう種類のカーペットをお宅の床にほしいとは思わないだろうけれど、これは飛びっきり高価な手織りのカーペットより、ずっと時間も労力もかかっていることはわかるだろう。太陽、雨、霜、雪、風が私たちの頭上にあるこの木々にふりそそぎ、季節がめまぐるしく変わる毎に、葉は落ちて死に、それに代わって生まれるべき無数の新しいもの、こうした生命のための場を整えるんだ。それに昆虫や鳥、毛虫のことも忘れちゃいけない。それぞれのやり方で、この過程を助けているのだから。彼らはみんな、この生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペットの生成に関わっているんだ」 ここにバルトークがいる、そうして彼の《夜の音楽》からは、この生と死とが入りまじっている、刺激的な臭いがしてくる。…… (吉田秀和『私の好きな曲』-21-ベラ・バルトーク《夜の音楽》) |
この《生と死とが入りまじっている、刺激的な臭い》は、中井久夫の「きのこの匂について」の《「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる》をその前段から読んでみるといい。 |
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カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。 |
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菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕 菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。〔・・・〕 |
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菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。〔・・・〕 |
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もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収) |
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中井久夫は自らを「ひどい音痴」と言っているがーー《絶望的に音痴である私には閉ざされた方法だが、合唱こそロシア人とわかり合えるチャンスではないか。ロシア人とは何かがもう一つはっきりしないのも、「ハモる」ことを通じて解けあえる「ことば以前」「意識以前」の何ものかがあるからではないか。歌を通さなくとも、ロシア語自体がこの言葉を解さない者にも訴える力を持つ特異な言語であると私は思う。それは、単なる美しさでなく、脊髄と内臓からの戦慄をよびおこす。》(中井久夫「ロシア人」)ーー、とはいえ感受力はバルトークのような人だ、間違いなく。
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なお異物の別名はケラク(Jouissance)である。 |
果実が溶けて快楽(けらく)となるように、 形の息絶える口の中で その不在を甘さに変へるやうに、 私はここにわが未来の煙を吸ひ 空は燃え尽きた魂に歌ひかける、 岸辺の変るざわめきを。 |
Comme le fruit se fond en jouissance, Comme en délice il change son absence Dans une bouche où sa forme se meurt, Je hume ici ma future fumée, Et le ciel chante à l’âme consumée Le changement des rives en rumeur. |
ーーヴァレリー「海辺の墓地( Le Cimetière marin)」第五節(中井久夫訳) |
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
異物=異者としての身体[Fremdkörper]ーーこの概念はもともとラテン語の《エイリアンの身体[corpus alienum]》に由来するーーを、フロイトはときに異者[ fremd]とだけ言った。 |
疎外(異者分離[Entfremdungen])は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, … Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs. (フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年) |
あるいは《内界にある自我の異郷部分》[das ichfremde Stück der Innenwelt ](『制止、症状、不安』第3章、1926年)とも。 つまりは次のニーチェとともに読むことができる。 |
偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
このさすらいびどの回帰こそ解離された異者のレミニサンスであり、享楽の回帰にほかならない。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
享楽は絶対的なものであり、それは現実界であり、私が定義したように、「常に同じ場処に回帰するもの」である[La jouissance est ici un absolu, c'est le réel, et tel que je l'ai défini comme « ce qui revient toujours à la même place »](Lacan, S16, 05 Mars 1969) |
反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
ヴァレリーのいう「岸辺の変るざわめき(Le changement des rives en rumeur)」に襲われたときは、私の場合、《すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおり》がやってくる場合が多い。あるいは幼年期の異者が。
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 |
je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, |
(プルースト「見出された時」) |
そう、最初は不快なのである、快原理内にある自我にとっては。
不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
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不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
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不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
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だが快原理の彼岸にあるエスにとっては、これがとてつもないエロトスなのである、ーー《「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近い》ーーこれは匂いの世界に限らず、「夜の音楽」の世界においても同様である、《ここにバルトークがいる、そうして彼の《夜の音楽》からは、この生と死とが入りまじっている、刺激的な臭いがしてくる》。 この荒木経惟の造語"Erotos"がラカンの享楽にほかならない、《ラカンによる享楽とは何か。…そこには秘密の結婚がある。エロスとタナトスの恐ろしい結婚である[Qu'est-ce que c'est la jouissance selon Lacan ? –…Se révèle là le mariage secret, le mariage horrible d'Eros et de Thanatos. ]》(J. -A. MILLER, LES DIVINS DETAILS, 1 MARS 1989)
こういったフロイト・ラカンの洞察を事実上、既に明らかにしているのはニーチェだけではない。これは、真の詩人、真の芸術家たちが遠い昔から示し続けてきていることである。私たちがつんぼでなければ、その声が彼らの作品から聞こえてくる。
ーー言語以前のものを表すのが本来の芸術であり詩に相違ない、ーー《詩は身体の共鳴を表現する[la poésie, la résonance du corps s'exprime]》(Lacan, S24, 19 Avril 1977)
ここで荒木経惟の傑作ととものイナンナ(シュメールの母なる大地像)とキクラデスの女神像を掲げておこう。 ーーこれらこそ卵の原像である。 さて、先に戻っていえば、詩人中井久夫の「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」という外傷性記憶の記述から「そら、あれが聞こえないのかい?」 ガラスの器、イチジクの実、ほの暗い廊下、向こうから歩いてくる、ーーだぜ? その言葉と言葉の隙間には何がある?
当面もっと手前のところで耳を鍛える訓練してからだろうよ、これは。 そう、エスの声に耳をすます訓練が人には是非とも必要であるーー、
谷川俊太郎の「みみをすます」にあるように、 (ひとつのおとに ひとつのこえに みみをすますことが もうひとつのおとに もうひとつのこえに みみをふさぐことに ならないように)
耳をすまさねばならない 例えば神社を歩くのはいい訓練だよ。 いかにもイチジクの実の割れ目がほの暗い廊下の向こうからやってきそうじゃないか、あるいはーー《足の踝が、膝の膕が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳顬が、ぼんの窪が――と、段々上つて來るひよめきの爲に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。》(折口信夫『死者の書』)という具合の巫女がさ。 常夜の巫女であって常世の巫女じゃだめだぜ。 |
鰭の広物・鰭の狭物・沖の藻葉・辺の藻葉、尽しても尽きぬわたつみの国は、常世と言ふにふさはしい富みの国土である。〔・・・〕併しもう一代古い処では、とこよが常夜で、常夜経く国、闇かき昏す恐しい神の国と考へて居たらしい。常夜の国をさながら移した、と見える岩屋戸隠りの後、高天原のあり様でも、其俤は知られる。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」) |
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最後にもう一度強調しておけば、人はみなつんぼから脱却せねばならない。あの古い、深い、深い真夜中に耳をすまさねばならない。