いささか古い記事だが、 「みんなの憧れ「女子アナ」「婦人アナウンサー」から「女子アナ」、「女性キャスター」への道」国広陽子(東京女子大学現代教養学部教授)2008/08/29によれば、女性アナウンサーではなく「女子アナ」というのは、どうやらフジテレビが起源らしいね、
この意味での「女子アナ」はどういう人が目指すんだろうかね、
どこの世に恋されようという料簡をもたない女の子がいるものですか。一人にも万人にも恋されたいとね。舞台の女は舞台で、散歩の令嬢は路上に於ても、恋されたいことを忘れているわけではないのさ。(「安吾巷談 田園ハレム」1950年) |
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どちらかというと万人に愛されたい人系かね。とすれば、仮にクンデラ区分に準拠すれば、政治家と同じ範疇だな。
もちろん②の社交家区分の人もいるんだろうが、おおむね「無名の目による視線」が好きな人のような印象を受けるね。
ま、これは女子アナに限らず、ほとんど普遍的なことかもしれないけどさ。
で、占有されやすいという話題で最近賑わっていたり顔写真が露出過剰だったりで、いささか価値が劣化したんじゃないかい? それとも最近の若い男たちにとってはそうではないのかね、 世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたいーー太田南畝(蜀山人) いや、シツレイしました、《こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない》です。 |
金剛石も磨かずば 珠の光は添はざらん 人も学びて後にこそ まことの徳は現るれ これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。 そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に 「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」 と訊ねた。すると父は、 「なによ馬鹿を言うだ」 と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。 こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。 |
次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年) |
ああ、こう記していて思い出したが、モンテーニュによれば、何はともあれ男が悪いらしいよ、
女というものは、たとえどんな醜女に生れついても、まったく自惚れを持たないことはない。あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたずにはいないのである。まったく、何もかも美しい女がいないように、何もかも醜い女もいない。 (モンテーニュ『エセー』第3部第3章16節) |
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最初の男の愛の誓いに、ころりと参らぬ女は一人もない。ところで、今日のように、男たちの裏切りが普通で当たり前になると、すでにわれわれが経験で知っているようなことが必然的に起こってくる。すなわち女たちは、独り独りでも、相結束してでも、そろって我々を回避するようになった。あるいはまた、彼女たちの方でも我々が教えた実例にならって同じ狂言に参加し、熱情なく、真心なく、愛なく、この取引に応ずるようになった。 《熱愛せらるることなければ、熱愛することもまたなくなりぬ》(タキトゥス)。 つまりプラトンにおけるリュシアスが教えるところに従って、女たちは、男たちが自分たちを愛することが少なければ、それだけ利益のために、ご都合のために、この身を委せてもよいと考えるわけである。(モンテーニュ『エセー』第3部第3章17節) |
ーー《我らのリビドーが満たされるや忽ちかつての誓いを反故にす。postquam cupidæ mentis satiata libido est, Verba nihil metuere, nihil perjuria curant.》(ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullusーーモンテーニュ『エセー』第3部より)
こう引用してくると芋蔓式に出てくるな |
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]( シェイクスピア、Troilus and Cressida) |
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男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多い…この相違は、男女の生理の相違に原因している点が多いようで、それだけ宿命的なものといえよう。(吉行淳之介「移り気な恋」) |
男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介『不作法紳士―男と女のおもてうら―』) |
いやいや実にシツレイしました、僕は昭和の人間だからな、ここに引用したことはトッテモフルイヨ