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2025年1月27日月曜日

こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない


いささか古い記事だが、 「みんなの憧れ「女子アナ」「婦人アナウンサー」から「女子アナ」、「女性キャスター」への道」国広陽子(東京女子大学現代教養学部教授)2008/08/29によれば、女性アナウンサーではなく「女子アナ」というのは、どうやらフジテレビが起源らしいね、



この意味での「女子アナ」はどういう人が目指すんだろうかね、


どこの世に恋されようという料簡をもたない女の子がいるものですか。一人にも万人にも恋されたいとね。舞台の女は舞台で、散歩の令嬢は路上に於ても、恋されたいことを忘れているわけではないのさ。(「安吾巷談 田園ハレム」1950年)



どちらかというと万人に愛されたい人系かね。とすれば、仮にクンデラ区分に準拠すれば、政治家と同じ範疇だな。






四つの視線のカテゴリー

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分される。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)

第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別のことばでいえば、大衆の視線に憧れる。〔・・・〕政治家になる道を選ぶ人間は、その人間が大衆の好意を得るという、素朴でむき出しの信仰を持って、自らすすんで大衆を自分の判定者にする。

政治家、スター、TV キャスター等

第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。…この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。

社交家

次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。

愛する人

そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。

夢想家、理念家、死者の眼差し



もちろん②の社交家区分の人もいるんだろうが、おおむね「無名の目による視線」が好きな人のような印象を受けるね。


とすれば、採用するほうは、どうしたってふくらはぎとかお尻の形のいい子を選ぶんだろうよ、


女のふくらはぎを見て雲の上から落っこったという久米の仙人の墜落ぶり〔・・・〕。

然しまことの文学というものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美というものではないか。(坂口安吾『教祖の文学――小林秀雄論――』1947年)

男はたしかに凡夫にすぎない。ソノ子のお尻の行雲流水の境地には比すべくもないのである。水もとまらず、影も宿らず、そのお尻は醇乎としてお尻そのものであり、明鏡止水とは、又、これである。 


乳くさい子供の香がまだプンプン匂うような、しかし、精気たくましくもりあがった形の可愛いゝお乳とお尻を考えて、和尚は途方にくれたのである。お釈迦様はウソをついてござる。男が悟りをひらくなんて、考えられることだろうかと。(坂口安吾『行雲流水』1949年)



ま、これは女子アナに限らず、ほとんど普遍的なことかもしれないけどさ。



色は君子の惡むところにして、佛も五戒のはじめに置くといへども、流石に捨てがたき情のあやにくに哀なるかた〴〵も多かるべし。人しれぬくらぶの山の梅の下ぶしに思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の關ももる人なくばいかなる過ちをか仕出でてん。あまの子の浪の枕に袖しほれて、家を賣り、身を失ふためしも多かれど、老の身の行末をむさぶり米錢の中に魂を苦しめて物の情をわきまへざるには遙かにまして罪ゆるしぬべし。(芭蕉『閉關の説』)



しかし次の事態も普遍的だからな、


美女美景なればとて不斷見るにはかならずあく事。(井原西鶴『好色一代女』)


私がその女の子をそんなに美しいと思ったのは、彼女をちらと見たにすぎなかったからであろうか? おそらくはそうだ。まず、女のそば近くに立ちどまることができないということ、またの日もう一度会えないというおそれ、それが突然その女に魅力をあたえるので、病気とか金がないとかで見物に行けないためにある土地が美しく見える、または、どうせ戦争でたたかって倒れるとわかっているとき、生きるために残された暗い日々が美しく見える、それとおなじなのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)



で、占有されやすいという話題で最近賑わっていたり顔写真が露出過剰だったりで、いささか価値が劣化したんじゃないかい? 




それとも最近の若い男たちにとってはそうではないのかね、



世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたいーー太田南畝(蜀山人)



いや、シツレイしました、《こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない》です。



金剛石も磨かずば

珠の光は添はざらん

人も学びて後にこそ

まことの徳は現るれ


これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。


そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に

「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」

と訊ねた。すると父は、

「なによ馬鹿を言うだ」

と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。


こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。


次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970年)



ああ、こう記していて思い出したが、モンテーニュによれば、何はともあれ男が悪いらしいよ、


女というものは、たとえどんな醜女に生れついても、まったく自惚れを持たないことはない。あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたずにはいないのである。まったく、何もかも美しい女がいないように、何もかも醜い女もいない。 (モンテーニュ『エセー』第3部第3章16節)


最初の男の愛の誓いに、ころりと参らぬ女は一人もない。ところで、今日のように、男たちの裏切りが普通で当たり前になると、すでにわれわれが経験で知っているようなことが必然的に起こってくる。すなわち女たちは、独り独りでも、相結束してでも、そろって我々を回避するようになった。あるいはまた、彼女たちの方でも我々が教えた実例にならって同じ狂言に参加し、熱情なく、真心なく、愛なく、この取引に応ずるようになった。 


《熱愛せらるることなければ、熱愛することもまたなくなりぬ》(タキトゥス)。


つまりプラトンにおけるリュシアスが教えるところに従って、女たちは、男たちが自分たちを愛することが少なければ、それだけ利益のために、ご都合のために、この身を委せてもよいと考えるわけである。(モンテーニュ『エセー』第3部第3章17節)


ーー《我らのリビドーが満たされるや忽ちかつての誓いを反故にす。postquam cupidæ mentis satiata libido est, Verba nihil metuere, nihil perjuria curant.》(ガイウス・ウァレリウス・カトゥルス Gaius Valerius Catullusーーモンテーニュ『エセー』第3部より)



こう引用してくると芋蔓式に出てくるな

女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ[Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.]( シェイクスピア、Troilus and Cressida)


男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多い…この相違は、男女の生理の相違に原因している点が多いようで、それだけ宿命的なものといえよう。(吉行淳之介「移り気な恋」)

男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介『不作法紳士―男と女のおもてうら―』)


いやいや実にシツレイしました、僕は昭和の人間だからな、ここに引用したことはトッテモフルイヨ