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2025年2月8日土曜日

広い意味で、フェティッシュでない行為は存在しない

  


ーーだってよ。

この池内恵は、柄谷曰くの《経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです》(「交換様式入門」2017年)のタグイじゃないかねぇ・・・


◾️ 生産様式[Produktionsweise]交通形式[Verkehrsform]


まずマルクスが経済的下部構造を示した代表的な文を掲げる。


経済的下部構造と社会的政治的上部構造

人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係の総体が、社会の経済的構造を形成する。これがリアルな土台[die reale Basis]であり、その上に一つの法的政治的上部構造がそびえたち、この土台に一定の社会的意識諸形態が対応する。物質的生活の生産様式[Produktionsweise]が、社会的・政治的および心的な生活過程一般の条件を与える。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。

Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.

(マルクス『経済学批判』「序言」1859年)







柄谷行人の「交換様式」とは、経済的下部構造としての生産様式[Produktionsweise]を『ドイツイデオロギー』の交通概念に遡って、より広範な捉え方をしたものである。



マルクス主義の公式的な理論では、建築的なメタファーにもとづいて、社会構成体の歴史は、 生産様式が経済的なベース(土台)にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されているということになっています。生産様式とは、人間と自然の関係からくる生産力と人間と人間の関係からくる生産関係です。しかし、 私は、社会構成体の歴史が経済的ベースによって決定されているということに反対ではありませんが、ただ、そのベースは生産様式ではなく、交換様式であると考えるのです。そして、私がいう交換様式は、自然と人間の関係および人間と人間の関係をふくむものです。

(注1)  しかし、これはマルクスに反するものではない。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の段階では、「生産力と生産関係」ではなく、「生産力と交通」という言い方をしていた。交通(Verkehr) は、生産関係、交通、交易、性交、さらに、戦争をふくむ概念である。すなわち、それは共同体間の「交換」の諸タイプをふくむ。したがって、私が複数の交換様式と呼ぶものは、マルクスが交通と呼んだものに対応するといってよい。一方、生産様式(生産力と生産関係)という観点は、自然と人間の関係が交換(代謝)であることを見ないために、そこにあったエコロジカルな認識を失うことになる。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)



『ドイツイデオロギー』には次のようにある。


諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間の物質的活動と物質的交通[materiellen Verkehr]という現実生活の言語に編み込まれている。人間の観念作用、思考作用、すなわち精神的交通[geistige Verkehr]は、ここではまたかれらの物質的生活態度の直接的な流出として現れる。ある民族の政治、法、道徳、宗教、形而上学などの言語のなかに現れるような精神的生産についても同じことがあてはまる。人間たちはかれらの諸観念、諸思想などの生産者であるが、しかし彼らは、かれらの生産諸力とこれに照応する交通とのある特定の発展よって、交通のはるか先の諸形態に至るまで条件づけられているような、現実的な、活動する人間たちである。

Die Produktion der Ideen, Vorstellungen, des Bewußtseins ist zunächst unmittelbar verflochten in die materielle Tätigkeit und den materiellen Verkehr der Menschen, Sprache des wirklichen Lebens. Das Vorstellen, Denken, der geistige Verkehr der Menschen erscheinen hier noch als direkter Ausfluß ihres materiellen Verhaltens. Von der geistigen Produktion, wie sie in der Sprache der Politik, der Gesetze, der Moral, der Religion, Metaphysik usw. eines Volkes sich darstellt, gilt dasselbe. Die Menschen sind die Produzenten ihrer Vorstellungen, Ideen pp., aber die wirklichen, wirkenden Menschen, wie sie bedingt sind durch eine bestimmte Entwicklung ihrer Produktivkräfte und des denselben entsprechenden Verkehrs bis zu seinen weitesten Formationen hinauf.

(マルクス『ドイツイデオロギー』1846年草稿)



ここにある物質的交通[materiellen Verkehr]を交通形式[Verkehrsform]ともしている。


征服する蛮族の場合には、すでにふれておいたように、戦争そのものがまだ一つの正常な交通洋式[Verkehrsform]である。Bei dem erobernden Barbarenvolke ist der Krieg selbst noch, wie schon oben angedeutet, eine regelmäßige Verkehrsform .(マルクス『ドイツイデオロギー』1846年草稿)



まさにこの交通様式[Verkehrsform]が柄谷の交換様式にほかならない。


この「交通」という語は、『資本論』冒頭近くの「商品のフェティシズム的性格」の節にも現れる。

もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの価値である。われわれの商品としての交通[Verkehr]がそれを証明している。われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。


Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.

(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)



繰り返せば、柄谷行人の「交換様式」は、この交通、あるいは交通様式に起源がある。つまりフェティッシュに。

……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕


マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕

一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)


柄谷はここで物神的力つまりフェティッシュ的力を考慮しない他分野の学問に対して強い批判をしている、《経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです》と。


繰り返せば、「交換様式」とはフェティッシュ様式であり、柄谷行人の2022年の書『力と交換様式』とは「フェティッシュと交換様式」、あるいは「フェティッシュという交換様式」の書なのである。



柄谷行人は彼の30代の仕事である『マルクスその可能性の中心』ですでに次のように記している。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


あらゆる記号の交換がフェティッシュであるとは、言語の交換、あるいはコミュニケーションはフェティッシュということに行き着く。以下の『トランスクリティーク』の《広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない》とは、「広い意味で、フェティッシュでない行為は存在しない」と言い換えうる。


『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年)




柄谷行人は最近のインタビューで『マルクスその可能性の中心』を振り返って次のように言っている。

マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫ 2024.02.20

――「マルクスその可能性の中心」では、マルクスの価値形態論について論じていますね。


柄谷 僕が宇野派から学んだマルクスの価値形態論は、商品同士の交換関係から考えて貨幣が出現する過程を明らかにしたものです。いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”を孕んでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから。


――たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますね。


柄谷 産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆にいうと、交換が成立しなければ、商品に価値はない。マルクスの偉大さは、みんなが当たり前だと思っている“商品”というものの、“奇怪さ”に驚いた、ということですね。

――柄谷さんはマルクスの驚きについて、「商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である」と書いています。


柄谷 商品の謎を突き詰めて考えていくと、商品が持つ物神(フェティッシュ)の力というところに行き着きます。いま僕が考えている交換様式でいえば、C(商品交換)の力ですよね。結局、いまだにその頃と同じことをやっているようなものなんだ。価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)。


《“交換様式”は、柄谷さんが社会のシステムを交換から見ることで編み出した独自の概念。A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている》


柄谷 そして、もっと言ってしまえば、マルクスの“可能性の中心”は、交換様式A、B、Cを超えた“交換様式D”の問題だったんだと、いまは思う。



《価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)》とあるが、結局、柄谷にとってのマルクスの核心は資本論冒頭に展開されている価値形態論である。



◾️フェティッシュ概念を通した柄谷とラカンの結びつき


このフェティッシュ概念を通して、柄谷とラカンは結びつく。

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.]  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)


ラカンのセミネールの熱心な出席者であったクリスティヴァは、言語はフェティッシュだと言っている。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


さらにラカンはフロイトに先立ってマルクスは人間の症状を見出したとさえ言っている。

症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971)


ここにある症状とは社会的結びつきーー「コミュニケーション=交換」関係ーーのことである。

社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999)


この社会的結びつきの別名が「言説」 discoursであり、「見せかけ」 semblantである。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)


この「見せかけ」のさらなる別名こそ「フェティッシュ」である。

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


つまりラカンの言説理論ーー四つの言説プラス資本の言説ーーとはフェティッシュ理論なのである。例えばラカンの資本の言説とは次の図式である。



そして剰余享楽とは、マルクスのフェティッシュ=剰余価値である。


私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



さらに言えば、ラカンが《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )と言ったとき、事実上、「フェティッシュなき主体はない」のことなのである。


なおラカンの対象aはフェティッシュ以外に穴としての対象aがあるので注意されたし、《対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel]》(Lacan, S16, 27 Novembre 1968)。この穴を穴埋めするのが剰余享楽としてのフェティッシュである、《装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]》(Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



◾️貨幣の無をヴェールする貨幣フェティッシュ


ここでより一般的に言えば、見せかけというフェティッシュは無を覆う機能である。

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


貨幣自体、本来的には無である。

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」)


この貨幣の無を覆うのがフェティッシュ、代表的なものなら貨幣フェティッシュである。


貨幣は無であるとはどういうことか。これは岩井克人の『貨幣論』で詳述されている、ーー《貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめた》をめぐってである。

25 貨幣の系譜と記号論批判

地のままの金から鋳造された金貨へ、軽くなった金貨から兌換を保証されている紙幣へ、兌換保証を失った紙幣からエレクトロニック・マネーへと変遷していく貨幣の系譜ーーそれは、まさに、「本物」の貨幣のたんなる「代わり」がその「本物」の貨幣になり代わってそれ自体で「本物」の貨幣となってしまうという「奇跡」のくりかえしにほかならない。もちろん、現実の歴史はこのような系譜をそのまま順を追ってなぞってはくれない。 飛び越しもあるだろうし、後戻りもある。だが、ここで重要なのは、どの時代においても、「本物」の貨幣とはそのときどきの「代わり」にたいするそのときどきの「本物」にすぎず、「本物」の貨幣の「代わり」とはそのときどきの「本物」にたいするそのときどきの「代わり」にすぎないということである。そして、このような「奇跡」のくりかえしをとおして、貨幣の貨幣としての価値とモノとしての価値のあいだの乖離が拡大していく傾向をもつ。それは、結局、貨幣が貨幣であるのは、それが充実した価値をもっているモノであるからではなく、たんにあの貨幣形態Zの無限の「循環論法」のなかで貨幣の位置をしめているからであるという事実を、歴史的に実証しつづけているのである。

今度は、逆に、貨幣の系譜を現在から過去へとさかのぼってみよう。 エレクトロニック・マネーから紙幣、紙幣から金貨、金貨から・・・・・・と順繰りにたどっていくと、地のままの金へとたどりつく。しかし、金塊や砂金がこの世の最初の貨幣であったわけではないだろう。燦然とかがやく金といえども、それ以前に流通していた「本物」の貨幣の「代わり」として流通のなかに登場してきたのにちがいない。たとえば、ポール・アインツィヒが著した原始貨幣にかんする書物 (Paul Einzig, Primitive Money, 2nd ed., New York: Pergamon press, 1966) をひもといてみれば、そこには、金のほかに、銀、銅、青銅、鉄、鉛、黒曜石、石の円版、ガラス玉、陶片、指輪、塩、矢、刀、斧、鉄砲、木材、樹皮、 小麦、大麦、トウモロコシ、米、ココナッツ、ココア、アーモンド、ヤム芋、砂糖、茶、ラム酒、ジン、タバコ、笛、太鼓、毛布、麻布、綿布、絹布、羽毛、毛皮、皮革、牛、羊、水牛、豚、トナカイ、 干し魚、バター、 子安貝、法螺貝、カタツムリ貝、鯨の歯、犬の歯、豚の歯、蜜蠟、そして人間の奴隷といったありとあらゆるものが、古今東西にわたって貨幣として流通していたことが書かれている。そのあきれるほどの多様さ、いや不統一さは、貨幣が貨幣であることはそれがどのようなモノであるかということとはなんの関係もないということを意味している。なんらかの意味での耐久性さえもっていれば、どのようなモノでも貨幣として使われてきたのである。だが、ここで強調すべきことは、たとえそれが鉱物であったとしても、植物であったとしても、動物であったとしても、人間であったとしても、さらにまたそのいずれにも分類できない得体の知れないモノであったとしても、貨幣がこの世にはじめて貨幣として登場したその瞬間に、それはモノとしての価値を上回る貨幣としての価値をもつことになったということである。そもそもその始原から、貨幣としての貨幣とはモノとしての存在以上の存在であり、モノとしての貨幣は貨幣としての存在以下の存在である。カッコがつかない本物の貨幣、いや本モノの貨幣という言葉は、自家撞着以外のなにものでもない。

貨幣の系譜をさかのぼっていくと、それは「本物」の貨幣の「代わり」がそれ自体で「本物」の貨幣になってしまうという「奇跡」によってくりかえしくりかえし寸断されているのがわかる。そして、その端緒にようやくたどりついてみても、そこで見いだすことができるのは、たんなるモノでしかないモノが「本物」の貨幣へと跳躍しているさらに大な断絶である。無から有が生まれていたのである。いや、貨幣で「ない」ものの「代り」が貨幣で「ある」ものになったのだ、といいかえてもよい。 貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。……(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)




《無から有が生まれていた》とあるが、この無がラカンによるフロイトのモノの定義のひとつである。



さてシンプルに壺の例を挙げよう、つまり現実界の中心にある空虚の存在を表象するものを作り出す対象である。それは空虚にもかかわらずモノと呼ばれる。この空虚は、無として自らを現す。そしてこの理由で、壺作り職人は、彼の手で空虚のまわりに壺を作る。神秘的な無からの創造、穴からの創造として。


Or le simple exemple du vase, …,à savoir cet objet qui est fait pour représenter l'existence  de ce vide au centre de ce réel tout de même qui s'appelle la Chose, ce vide tel qu'il se présente dans la représentation, se présente bien comme un nihil, comme rien.   Et c'est pourquoi le potier, …bien qu'il crée le vase autour de ce vide avec sa main, il le crée tout comme le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.

(ラカン,  S7,  27 Janvier  1960)

忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノと呼んでいる。

N'oublions pas (…)  à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  (…)  j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. 

(ラカン, S7, 03  Février  1960)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)



上にあるように、基本的には、無=空虚=穴であり、これが現実界つまりフロイトのエスである。この無なる穴を穴埋めするのが主に父の名、つまり言語であり、フェティッシュである。



父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)

ラカンは、父を固有のフェティシズムに基づいて定義した[Lacan définit le père à partir d'un fétichisme particulier](エリック・ロラン Éric Laurent, Un nouvel amour pour le père, 2006)



◾️フロイトにおけるエスの欲動と自我のフェティッシュ


最晩年のフロイト自身、自我分裂概念を基盤にしてエスとフェティッシュの分裂を言っている。

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


フロイトにおいて事実上、抑圧されたエス以外の外界はフェティッシュなのである。

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt.

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


エス以外の外界がフェティッシュであるということは、もちろん自我もフェティッシュである。


自我は本来的には存在しないものだということは昔から語られ続けてきた。


しかし、この学ーー(事実上「自我心理学」:引用者)ーーの根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全き空無な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。

Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet.  

(カント『純粋理性批判』1781年)


人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜[Nacht der Welt]であり、空無である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己。こちらに血まみれの頭が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜がこのとき、われわれの現前に現れている。

Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts, das alles in ihrer Einfachheit enthält, ein Reichtum unendlich vieler Vorstellungen, Bilder deren keines ihm gerade einfällt oder die nicht als gegenwärtige sind. Dies ist die Nacht, das Innere der Natur, das hier existiert – reines Selbst. In phantasmagorischen Vorstellungen ist es ringsum Nacht; hier schießt dann ein blutiger Kopf, dort eine andere weiße Gestalt hervor und verschwinden ebenso. Diese Nacht erblickt man, wenn man dem Menschen ins Auge blickt – in eine Nacht hinein, die furchtbar wird; es hängt die Nacht der Welt einem entgegen.(Hegel, Jenaer Realphilosophie, 1805/6)

(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)


「主体」は虚構に過ぎない。自我はまったく存在しない[Das »Subjekt« ist nur eine Fiktion: es gibt das ego gar nicht](ニーチェ遺稿1882ー1887年)


人はフェティッシュという語をきくとき、足フェチやら下着フェチやらのみを想起する傾向があるが、フェティッシュとはたんにそんなものだけでなく、人間にとっての根源的概念なのである。


宗教学・人類学においては不幸にも次のような経緯があるようだが。

一九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、フェティシズムは「アニミズム」、「トーテミズム」、そして「マナ」といった概念に置き換えられ、事実上、宗教学・人類学の領域から姿を消してゆく。(杉本隆司「啓蒙思想としてのフェティシズム概念」2005年)



マルクスがフェティッシュ概念を使い始めたとき、最初に依拠したシャルル・ド・ブロスの『フェティッシュ神の崇拝』にはこうある。


先に進む前に今一つ注意しておかねばならないことがある。それは、特定の自然の産物に対するこの崇拝[フェティシズム]が俗に偶像崇拝[イドラトリ]と呼ばれる、人工物に対して表される崇拝とは本質的に違うということだ。というのもこのような人工物は、崇敬の念が本当に差し向けられる別の対象[神]を表象しているに過ぎない。だがこれに対して、ここでの崇拝は生きた動物や植物そのものに対して直接に向けられているからである。(シャルル・ド・ブロス『フェティッシュ神の崇拝』1760年)


この意味で、フェティッシュは、エドワード・タイラーが『原始文化』(1871年)で提起したアニミズムとは異なる。フェティッシュとは人が作る物神である。他方、アニミズムは神霊が先立っている。


最後に私の愛するミシェル・レリスのジャコメッティ論の冒頭にある文を掲げておこう。


フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine ](ミシェル・レリス「アルベルト・ジャコメッティ」 Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)





※附記


ここでは「経済的なもの=交通的なもの=交換的なもの」として人間の営為はすべてフェティッシュに関わるという視点から主に文献を列挙したが、フロイトのコメントを附記しておこう。

マルクス主義のすぐれたところは、歴史の理解の仕方とそれにもとづいた未来の予言にあるのではなく、人間の経済的諸関係が知的、倫理的、芸術的な考え方に及ぼす避けがたい影響を、切れ味鋭く立証したところにある。これによって、それまではほとんど完璧に見誤られていた一連の因果関係と依存関係が暴き出されることになった。


Die Stärke des Marxismus liegt offenbar nicht in seiner Auffassung der Geschichte und der darauf gegründeten Vorhersage der Zukunft, sondern in dem scharfsinnigen Nachweis des zwingenden Einflusses, den die ökonomischen Verhältnisse der Menschen auf ihre intellektuellen, ethischen und künstlerischen Einstellungen haben. Eine Reihe von Zusammenhängen und Abhängigkeiten wurden damit aufgedeckt, die bis dahin fast völlig verkannt worden waren.


しかしながら、 経済的動機が社会における人間の行動を決定する唯一のものだとまで極論されると、われわれとしては、受け入れることができなくなる。〔・・・〕そもそも理解できないのは、生きて動く人間の反応が問題になる場合に、どうして心理的ファクターを無視してよいわけがあろうかという点である。

Aber man kann nicht annehmen, daß die ökonomischen Motive die einzigen sind, die das Verhalten der Menschen in der Gesellschaft bestimmen. (…) Man versteht überhaupt nicht, wie man psychologische Faktoren übergehen kann, wo es sich um die Reaktionen lebender Menschenwesen handelt

(フロイト「続精神分析入門」第35講、1933年)


柄谷やラカンの読解、あるいは先に掲げた最晩年のフロイト自身のフェティッシュをめぐる記述に基けば、ここにある「心理的ファクター」自体、「経済的なもの=フェティッシュ的なもの」なのである。

さらにもうひとつ、丸山真男の「政治的なもの」の定義を掲げておく。


政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)


冒頭に掲げた東大教授池内恵ーーさらにロールズなる駒場シンクタンクの代表でもあるーーの発言が、仮に一般にはやや難解かもしれないマルクス観点を外して、この丸山真男観点のみを通しても、いかに愚かしいものかがわかる筈である。


かつて彼の次の発言を拾ったことがある。



まさにタコツボ学者というほかない人物である。



自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。


自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。


人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)