ーーだってよ。
この池内恵は、柄谷曰くの《経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです》(「交換様式入門」2017年)のタグイじゃないかねぇ・・・
◾️ 生産様式[Produktionsweise]と交通形式[Verkehrsform] まずマルクスが経済的下部構造を示した代表的な文を掲げる。 ●経済的下部構造と社会的政治的上部構造 |
人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係の総体が、社会の経済的構造を形成する。これがリアルな土台[die reale Basis]であり、その上に一つの法的政治的上部構造がそびえたち、この土台に一定の社会的意識諸形態が対応する。物質的生活の生産様式[Produktionsweise]が、社会的・政治的および心的な生活過程一般の条件を与える。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。 |
Die Gesamtheit dieser Produktionsverhältnisse bildet die ökonomische Struktur der Gesellschaft, die reale Basis, worauf sich ein juristischer und politischer Überbau erhebt und welcher bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen entsprechen. Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt. Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt. |
(マルクス『経済学批判』「序言」1859年) |
柄谷行人の「交換様式」とは、経済的下部構造としての生産様式[Produktionsweise]を『ドイツイデオロギー』の交通概念に遡って、より広範な捉え方をしたものである。
マルクス主義の公式的な理論では、建築的なメタファーにもとづいて、社会構成体の歴史は、 生産様式が経済的なベース(土台)にあり、政治的・観念的な上部構造がそれによって規定されているということになっています。生産様式とは、人間と自然の関係からくる生産力と人間と人間の関係からくる生産関係です。しかし、 私は、社会構成体の歴史が経済的ベースによって決定されているということに反対ではありませんが、ただ、そのベースは生産様式ではなく、交換様式であると考えるのです。そして、私がいう交換様式は、自然と人間の関係および人間と人間の関係をふくむものです。 |
(注1) しかし、これはマルクスに反するものではない。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』の段階では、「生産力と生産関係」ではなく、「生産力と交通」という言い方をしていた。交通(Verkehr) は、生産関係、交通、交易、性交、さらに、戦争をふくむ概念である。すなわち、それは共同体間の「交換」の諸タイプをふくむ。したがって、私が複数の交換様式と呼ぶものは、マルクスが交通と呼んだものに対応するといってよい。一方、生産様式(生産力と生産関係)という観点は、自然と人間の関係が交換(代謝)であることを見ないために、そこにあったエコロジカルな認識を失うことになる。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年) |
『ドイツイデオロギー』には次のようにある。
諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間の物質的活動と物質的交通[materiellen Verkehr]という現実生活の言語に編み込まれている。人間の観念作用、思考作用、すなわち精神的交通[geistige Verkehr]は、ここではまたかれらの物質的生活態度の直接的な流出として現れる。ある民族の政治、法、道徳、宗教、形而上学などの言語のなかに現れるような精神的生産についても同じことがあてはまる。人間たちはかれらの諸観念、諸思想などの生産者であるが、しかし彼らは、かれらの生産諸力とこれに照応する交通とのある特定の発展よって、交通のはるか先の諸形態に至るまで条件づけられているような、現実的な、活動する人間たちである。 |
Die Produktion der Ideen, Vorstellungen, des Bewußtseins ist zunächst unmittelbar verflochten in die materielle Tätigkeit und den materiellen Verkehr der Menschen, Sprache des wirklichen Lebens. Das Vorstellen, Denken, der geistige Verkehr der Menschen erscheinen hier noch als direkter Ausfluß ihres materiellen Verhaltens. Von der geistigen Produktion, wie sie in der Sprache der Politik, der Gesetze, der Moral, der Religion, Metaphysik usw. eines Volkes sich darstellt, gilt dasselbe. Die Menschen sind die Produzenten ihrer Vorstellungen, Ideen pp., aber die wirklichen, wirkenden Menschen, wie sie bedingt sind durch eine bestimmte Entwicklung ihrer Produktivkräfte und des denselben entsprechenden Verkehrs bis zu seinen weitesten Formationen hinauf. |
(マルクス『ドイツイデオロギー』1846年草稿) |
ここにある物質的交通[materiellen Verkehr]を交通形式[Verkehrsform]ともしている。 |
征服する蛮族の場合には、すでにふれておいたように、戦争そのものがまだ一つの正常な交通洋式[Verkehrsform]である。Bei dem erobernden Barbarenvolke ist der Krieg selbst noch, wie schon oben angedeutet, eine regelmäßige Verkehrsform .(マルクス『ドイツイデオロギー』1846年草稿) |
まさにこの交通様式[Verkehrsform]が柄谷の交換様式にほかならない。
この「交通」という語は、『資本論』冒頭近くの「商品のフェティシズム的性格」の節にも現れる。 |
もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの価値である。われわれの商品としての交通[Verkehr]がそれを証明している。われわれはただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。 |
Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander. |
(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
繰り返せば、柄谷行人の「交換様式」は、この交通、あるいは交通様式に起源がある。つまりフェティッシュに。 |
……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕 マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕 一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年) |
柄谷はここで物神的力つまりフェティッシュ的力を考慮しない他分野の学問に対して強い批判をしている、《経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです》と。
繰り返せば、「交換様式」とはフェティッシュ様式であり、柄谷行人の2022年の書『力と交換様式』とは「フェティッシュと交換様式」、あるいは「フェティッシュという交換様式」の書なのである。
柄谷行人は彼の30代の仕事である『マルクスその可能性の中心』ですでに次のように記している。 |
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
あらゆる記号の交換がフェティッシュであるとは、言語の交換、あるいはコミュニケーションはフェティッシュということに行き着く。以下の『トランスクリティーク』の《広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない》とは、「広い意味で、フェティッシュでない行為は存在しない」と言い換えうる。 |
『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年) |
柄谷行人は最近のインタビューで『マルクスその可能性の中心』を振り返って次のように言っている。 |
●マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫ 2024.02.20 |
――「マルクスその可能性の中心」では、マルクスの価値形態論について論じていますね。 柄谷 僕が宇野派から学んだマルクスの価値形態論は、商品同士の交換関係から考えて貨幣が出現する過程を明らかにしたものです。いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”を孕んでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから。 ――たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますね。 柄谷 産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆にいうと、交換が成立しなければ、商品に価値はない。マルクスの偉大さは、みんなが当たり前だと思っている“商品”というものの、“奇怪さ”に驚いた、ということですね。 |
――柄谷さんはマルクスの驚きについて、「商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である」と書いています。 柄谷 商品の謎を突き詰めて考えていくと、商品が持つ物神(フェティッシュ)の力というところに行き着きます。いま僕が考えている交換様式でいえば、C(商品交換)の力ですよね。結局、いまだにその頃と同じことをやっているようなものなんだ。価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)。 《“交換様式”は、柄谷さんが社会のシステムを交換から見ることで編み出した独自の概念。A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている》 柄谷 そして、もっと言ってしまえば、マルクスの“可能性の中心”は、交換様式A、B、Cを超えた“交換様式D”の問題だったんだと、いまは思う。 |
《価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)》とあるが、結局、柄谷にとってのマルクスの核心は資本論冒頭に展開されている価値形態論である。
◾️フェティッシュ概念を通した柄谷とラカンの結びつき |
このフェティッシュ概念を通して、柄谷とラカンは結びつく。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.] (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラカンのセミネールの熱心な出席者であったクリスティヴァは、言語はフェティッシュだと言っている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。 Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant. (ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
さらにラカンはフロイトに先立ってマルクスは人間の症状を見出したとさえ言っている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ここにある症状とは社会的結びつきーー「コミュニケーション=交換」関係ーーのことである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この社会的結びつきの別名が「言説」 discoursであり、「見せかけ」 semblantである。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この「見せかけ」のさらなる別名こそ「フェティッシュ」である。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
つまりラカンの言説理論ーー四つの言説プラス資本の言説ーーとはフェティッシュ理論なのである。例えばラカンの資本の言説とは次の図式である。 そして剰余享楽とは、マルクスのフェティッシュ=剰余価値である。
さらに言えば、ラカンが《症状なき主体はない[Il n’y a pas de sujet sans symptôme ]》(Lacan, S19, 19 Janvier 1972 )と言ったとき、事実上、「フェティッシュなき主体はない」のことなのである。 なおラカンの対象aはフェティッシュ以外に穴としての対象aがあるので注意されたし、《対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel]》(Lacan, S16, 27 Novembre 1968)。この穴を穴埋めするのが剰余享楽としてのフェティッシュである、《装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]》(Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) ◾️貨幣の無をヴェールする貨幣フェティッシュ
《無から有が生まれていた》とあるが、この無がラカンによるフロイトのモノの定義のひとつである。
人はフェティッシュという語をきくとき、足フェチやら下着フェチやらのみを想起する傾向があるが、フェティッシュとはたんにそんなものだけでなく、人間にとっての根源的概念なのである。
冒頭に掲げた東大教授池内恵ーーさらにロールズなる駒場シンクタンクの代表でもあるーーの発言が、仮に一般にはやや難解かもしれないマルクス観点を外して、この丸山真男観点のみを通しても、いかに愚かしいものかがわかる筈である。 かつて彼の次の発言を拾ったことがある。 まさにタコツボ学者というほかない人物である。
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