柄谷行人は「形式化の問題」で、カイム・ペレルマン(Chaïm Perelman)の『レトリックの帝国(L'empire rhétorique)』ーー邦訳題名『説得の論理学』ーーを引きつつ、二項対立は単なる二項対立でないことを言っている。
ペレルマンは『レトリックの帝国』のなかで、伝統的レトリックではほとんどとりあつかわれない議論技術として「概念の分割」をあげている。「現象/実在」という対象概念は、その最も代表的な例であり、偶然/本質、相対/絶対、個別的/普遍的、抽象的/具体的、行為/本質、理論/実践といった二項対立もおなじみのものだ。ペレルマンはこれを「第一項/第二項」とよび、さらにそれらがたんなる二項対立ではないことをつぎのように説明している。 |
《現象/実在という対概念を手本として、哲学的概念を第一項/第二項の形で表すことができる。第一項は現象的なもの、最初に出てくるもの、現実的なもの、直接的なもの、直接に認識されるものを表わす。第二項は第一項との間には区別があるが、この区別は第一項に関連づけてのみ理解される区別であって、第一項の諸様相間に現れた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物が第一項と第二項との区別である。第二項は第一項の諸様相内で価値あるものと無価値なものとを区別することを可能にする基準、規範を示している。第二項はたんに与えられてそこにあるものではなく、第一項を分割するにあたってその諸様相間に上下関係を設定することを可能にする規則のための構成物(コンストラクション)でもある。何が実在であるかを決定する第二項の規則に合致しないものが、見かけのもの、誤っているもの、悪い意味で現象的なものである。第二項は第一項に対して規範であり、同時に説明でもあるのである。》(ペルレマン「説得の論理学」) |
「説得の技術」としてみられているかぎり、どんなレトリック論も不毛である。(中略)「説得の技術」であるかぎり、レトリックは二次的であり、それはペレルマン自身のいい方でいえば、{(レトリック/哲学)哲学}という構図のなかにある。すなわち、レトリックと哲学の対立はメタレベルとしての哲学によって支えれれている、しかし、今日いわれている「レトリックの復権」は、そのような構図の"逆転"としてあらわれたのである。つまりレトリックそのものがレトリカルに逆転されたのであって、この自己言及性に注意しなければならない。それがもはやたんなる"逆転"でありえないことはいうまでもない。ペレルマンは、西洋哲学がそのような二項対立のなかにあると同時に、"独創的思想"が、これらの対概念の上下を逆転することによって生じてきたこと、しかしたんなる"逆転"にはとどまりえないことを、次のように説明している。 |
《独創的思考はためらうことなくこれら対概念の上下をひっくり返すものだが、しかし、その逆転も、対概念の二項のいずれかを手直しすることなしに起こることはまれである。逆転を正当化する理由を言う必要があるからである。こうしてたとえば個別的/普遍的という伝統的形而上学の特徴的な対概念を逆転すると、抽象的/具体的という対概念になる。なぜなら普遍がプラトン的イデアの如き高度の実在でなく、具体的なものから派生した抽象物とみなされるところでは、唯一の具体的存在でる個別的なものの方にこそ価値があるとされるからである。その場合直接に与えられたものの方が実在であり、抽象物は理論/実在の対概念に対応した派生的理論的産物にすぎないものとなる。》 |
そこからみれば、「形式化」が、たんに形式/内容の逆転ではありえず、{(形式/内容)内容}という構図そのものの逆転であらざるをえないことが明らかになるだろう。そして、この逆転は、{(内容/形式)形式}に帰結するだろう。デリダのいう「自己再固有化の法則」とはこのことである。そして、彼自身が{(差異/同一性)同一性}という形而上学的な構造を根本的に逆転するかぎり、{(同一性/差異)差異}に帰着してしまわざるをえない。彼自身が「自己再固有化」におちいらないようにするために、再び従来の構図を必要とするのである。 |
すでにのべたように、十九世紀後半からの「形式化」は、「知覚/想像力」・「実存/本質」・「不在/現前性」・「シニフィアン/シニフィエ」・「文字/音声」・「狂気/理性」・「精神/身体(知覚)」、その他ありとあらゆる二項対立(副次的なもの/一次的・本質的なもの)の“逆転”としてあらわれている。それが実存主義とよばれようと、構造主義とよばれようと、また当人がそのような名称を拒絶しようと、重要なのはそのような“逆転”ではない。むしろわれわれが問うべきなのは、いかにして“逆転”が可能なのかということだ。そのことは、すでにペレルマンが「分割」についてのべたことのなかに示唆されている。 すなわち、第二項は、「第一項/第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。つまり、プラトン以来の哲学は、たんなる二分法によるのではなく、この対立がもつ自己言及的なパラドックスを“禁止”するところにあった。しかし、それはけっして“禁止”できない、というのは、それは形式的にコンシステントであろうとするかぎり、「決定不能性」におちいるからである。(柄谷行人「形式化の問題」『隠喩としての建築』所収、1983年) |
{(形式/内容)内容}の逆転が、{(内容/形式)形式}、デリダの{(差異/同一性)同一性}の逆転が{(同一性/差異)差異}とあるが、図式化すれば、次のようになる。
上で柄谷の言っている後半部分はこの図式だけの話ではないのだが、ここではその部分は割愛する。そして、あらゆる二項対立はこの図式に当て嵌めうる点にのみ注目する。
例えばーー、
実際、21世紀の現在、この図のように本質的なものは女で、副次的なものが男ではないか。
事実、現代ラカン派観点では、先の逆転が起こっているのである。 |
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原理の女性化がある。両性にとって女なるものがいる。過去は両性にとってファルスがあった[il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.](エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015) |
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ファルスというのは男性原理であり、少なくとも21世紀になって、底部構造において男性原理から女性原理への移行がある、という観点である。もちろん上部構造においては男と女の二項対立が継続してあるが。
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このパロール、つまりファルスの別名は見せかけである。 |
見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971) |
ジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。 |
象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属している[L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné.](J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014) |
この意味は、何よりもまず、言語原理は、身体原理に従属しているということである。 |
素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。 (坂口安吾「女体」1946年) |
女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) |
◾️マイケル・ハドソン「偽りのないセクター」 The Honest Sector By Michael Hudson, April 29, 2021 |
マイケル:あなたはいくつかの点を指摘しました。1960年代には、私が知るほぼ全員があなたのナショナリズムに関する見解に同意していました。彼らは第二次世界大戦を経験したばかりです。彼らはそれをナショナリズムの現れと見なしていました。原則的には、ナショナリズムの解毒剤はグローバリズムになるだろうと思われていました。しかし、グローバリズムが今日のような形に変わるとは誰も予想していませんでした。ナショナリズムが悪いのであれば、アメリカが主導する一方的なグローバリズムも悪いのです。現在のグローバリズムはアメリカのナショナリズムです。 ヨーロッパ人は最もナショナリストで、悪意に満ちたナショナリストです。しかし、彼らはアメリカのためのナショナリストなのです! |
Michael: you made a number of points. Back in the 1960s almost everybody I knew agreed with your views about nationalism. After all they just went through World War II. They looked at that as an expression of nationalism. In principle it seemed to be that the antidote to nationalism was going to be globalism. But nobody expected that globalism would turn into what it’s turned out today. If nationalism is bad, so is a unilateral globalism run by the United States. Globalism today is American nationalism. Europeans are the most nationalistic, viciously nationalistic people of all. But they’re nationalistic for the United States! |
なお、ある時期のグローバリズムはカントの世界共和国[Weltrepublik]や世界市民社会[eine weltbürgerliche Gesellschaft (cosmopolitismus) ]などを志向するものとされた。だが冷戦終了後の世界では「資本のグローバル化」である。別名、自由主義である。
自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人「二十一世紀の資本主義論」2000年) |
ナショナリズムについてはミッテランは次の遺言を残して死んでいった。 |
ナショナリズム、それが戦争だ!(フランソワ・ミッテラン演説、1975年1月17日) |
(Le nationalisme, c'est la guerre ! François Mitterrand, 17 janvier 1995) |
柄谷行人の思考のベース「資本=ネーション=国家」のネーションは事実上ナショナリズムであり、ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体である。 |
ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕 |
ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ] そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕 |
国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛[fraternity]の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。 これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年) |
ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』第3部 第1章 2022年) |
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おい、ポピュリズムだってよ。キミたち日々ツイッターでやってるやつだろ?
以下、『世界史の構造』は手元に英訳しかないので私訳して掲げるが、ナショナリズムとはデモクラシーだよ。 |
デモスは一種の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であるという点で近代国家に似ていた。アテネのデモクラシーはこの種のナショナリズムと切り離せない[the demos resembled the modern nation in being a kind of “imagined community” (Benedict Anderson). Athenian democracy is inseparable from this kind of nationalism. ](柄谷行人『世界史の構造』第5章、2010年) |
さらにーー《アンダーソンはナショナリズムを、そのために人が死に得るようなものという観点からみています。宗教のために死ねなくなった場合に、ネーションがその代わりをする。また、ネーションは、先祖・子孫というような家族的連続性の代わりでもあるからです。〔・・・〕ぼくはナショナリズムをその観点から見なければならないと思っているんです。自己保存ではなく、自己破壊の観点から。》(討論「ポストコロニアルの思想とは何か」鵜飼哲・酒井直樹・鄭暎恵・冨山一郎・村井紀・柄谷行人ーー『批評空間』Ⅱ 11-1996) これを受け入れるなら、僕は金輪際ナショナリズムなんて嫌だね。 なにはともあれ、自由民主主義ーーリベラルデモクラシー、ーーとはクソみたいな言葉であって、グローバリズムナショナリズムだよ。なんだ、これ? いけね、二項対立の話を理路整然としたフーガにするつもりだったのにカオスになっちまった。とはいえ安吾を引用したプレリュードまではまともだから、ま、この記事は政治の話じゃなくて女の話としてドウゾ読ンデクダサイ。 |