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2025年4月30日水曜日

トランプ経済顧問の支離滅裂ぶり

 

藤巻健史氏は消費税減税派の質問には「バカにしつつも」よく応答しているのに、J Sato氏のような核心を突く問いにはスルーしている。



藤巻氏は国内問題では、国会で植田日銀を「正しく」攻めつつ、避けがたいハイパーインフレ税を予測しているのだが、いまだドル信奉者のままであり、大きな欠陥がある。ま、要するにコモノである。同じ投資家のレイ・ダリオのような大きな視野からの分析知はまったくない。




もうひとつJ Sato氏のツイートを掲げよう。





この話は3週間ほど前、「トランプ最高経済顧問スティーブン・ミランによるドル殺し」で示唆したが、いまでは支離滅裂だそうだ。


アメリカでも財政の中枢の人物がこのようなテイタラクなので、藤巻健史氏を難詰するのも酷というものかもしれない。


いずれにせよ、いくら権威的な人物でも全面的には信用しないことが肝腎である、それは経済に限らずあらゆる分野において。


…………………


※附記



弟子たちよ、わたしはこれから独りとなって行く。君たちも今は去るがよい、しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。


まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたのかもしれぬ。


認識の徒は、おのれの敵を愛することができるばかりか、おのれの友を憎むことができなくてはならぬ。

いつまでもただ弟子でいるのは、師に報いる道ではない。なぜ君たちはわたしの花冠をむしり取ろうとしないのか。


君たちはわたしを敬う。しかし、君たちの尊敬がくつがえる日が来ないとはかぎらないのだ。そのとき倒れるわたしの像の下敷きとならないように気をつけよ。


君たちは言うのか、ツァラトゥストラを信じると。しかし、ツァラトゥストラそのものに何の意味があるのか。君たちはわたしの信徒だ。だが、およそ信仰というものに何の意味があるのか。


君たちはまだ君たち自身をさがし求めなかった。さがし求めぬうちにわたしを見いだした。信徒はいつもそうなのだ。だから、信ずるというのはつまらないことだ。


いまわたしは君たちに命令する。わたしを捨て、君たち自身を見いだすことを。そして、君たちのすべてがわたしを否定することができたとき、わたしは君たちのもとに帰ってこよう……


(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「贈り与える徳 Von der schenkenden Tugend 」1883年)



信念は牢獄である。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信仰の人、あらゆる種類の「信者」は、必然的に独立心なき人間、ーーおのれを目的として定立しえない、おのれの内から総じて目的を定立しえない人間である。「信者」はおのれに所属していない、彼は手段たりうるのみである。彼は利用しつくされざるをえないのである、彼はおのれを利用しつくす誰かを必要とするのである。彼の本能は無我の道徳に最高の栄誉をあたえる、そうした道徳にすべてのものが彼を説きふせるのである、彼の賢明さが、彼の経験が、彼の虚栄が。あらゆる種類の信仰が、自己喪失の、自己疎外の表現である。


外部から拘束し固定する制約が大多数の者にとってはいかに必要であるかに、強制が、より高い意味では奴隷制が、意志薄弱なとりわけ女性がそのもとで栄える唯一最後の条件であることに想いおよぶなら、信念の、「信仰」の何であるかもまたわかるというものである。


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ、すべての価値において融通がきかない光学をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。


しかしかくしてこの種の人間は、誠実な人間の、 真理の反対物に敵対者になる。:「真」と「非真」の問題に総じて良心をもつということは、信者の意のままにはならないことである。


この点で正直であれば彼はただちに破減するにちがいないその光学の病理学的制約が信念の人を狂信家ーーサヴォナローラ、ルター、ルソー、ロベスピエール、サン・シモンー、ーーに、強い精神の、自由となった精神の反対類型にしてしまう。しかしこうした病的な精神の、概念のこうした癲癇病者の大げさな態度が、大衆に影響をおよぼす、 狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである。


(ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)




ニーチェの言っていることは、古井由吉やクンデラの言い方なら、文学の欠如批判、小説の知恵の不在批判である。


◼️宙吊りに耐えられない「文学の欠如」精神

今、人が政治家や実業家に持っている不満は、突き詰めると、文学の欠如にたいしてでは ないか。それは、詩を読めとか、小説を読めということではありません。不確定なものへの関心のことです。(古井由吉「翻訳と創作と」東京大学講演『群像』2012 年 12 月号) 

人がサスペンデッドな状態、宙吊りの状態に耐えられなくなっているんです。むずかしい問題は、たいがいサスペンデッドです。判断が下せない期間が長くなります。その猶予に耐えられないから、決まり切った概念、用語、符号が与えられることを求めるんです。(古井由吉「宙吊りに耐えられない」『人生の色気』2009年) 


◼️小説の知恵(不確実性の知恵)la sagesse du roman (la sagesse de l'incertitude) 

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。


この〈あれかこれか〉のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ「不評を買ったセルバンデスの遺産」『小説の精神』所収、Milan Kundera, l'héritage décrié de Cervantès, L'art du roman, 1986年)



……………


最後に追記的に藤巻健史氏の見解を掲げておこう。



これが日本だけではなくアメリカでも起き得るか、というレイ・ダリオ等の問題提起がある。日本を代表するケインジアン岩井克人はその可能性をーー基軸通貨ドルの崩壊に関してーー既に2000年の段階で指摘している[参照]。

なお二人のマルキストであるマイケル・ハドソン&リチャード・ウルフの観点は、トランプが陥っているのは「極めて伝統的なジレンマ」


なおインフレ税については、もう10年近く前になるが加谷珪一氏が、一般にもわかりやすいように、とても巧みに説明していたので、ここに掲げておく。

インフレ課税というのは、インフレを進める(あるいは放置する)ことによって実質的な債務残高を減らし、あたかも税金を課したかのように債務を処理する施策のことを指す。具体的には以下のようなメカニズムである。


例えばここに1000万円の借金があると仮定する。年収が500万円程度の人にとって1000万円の債務は重い。しかし数年後に物価が4倍になると、給料もそれに伴って2000万円に上昇する(支出も同じように増えるので生活水準は変わらない)。しかし借金の額は、最初に決まった1000万円のままで固定されている。年収が2000万円の人にとって1000万円の借金はそれほど大きな負担ではなく、物価が上がってしまえば、実質的に借金の負担が減ってしまうのだ。


この場合、誰が損をしているのかというと、お金を貸した人である。物価が4倍に上がってしまうと、実質的に貸し付けたお金の価値は4分の1になってしまう。これを政府の借金に応用したのがインフレ課税である。


現在、日本政府は1000兆円ほどの借金を抱えているが、もし物価が2倍になれば、実質的な借金は半額の500兆円になる。この場合には、預金をしている国民が大損しているわけだが、これは国民の預金から課税して借金の穴埋めをしたことと同じになる。実際に税金を取ることなく、課税したことと同じ効果が得られるので、インフレ課税と呼ばれている。(加谷珪一「戦後、焼野原の日本はこうして財政を立て直した 途方もない金額の負債を清算した2つの方法」2016.8.15)