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2025年4月12日土曜日

「今=ここ」文化日本


ソニー・タン(Sony Thang)の実に優れたツイートをJ Sato氏が翻訳してくれている。



J Sato@j_sato Apr 11, 2025

"ドナルド・トランプは、あなたとの取引を決して信用しない理由をまたひとつ世界に与えてしまった。


一息つけば125%。次は10%だ。


今日は "即時発効"、明日は "一時停止 "だ。


誰が風見鶏と交渉するんだ?


これは強さではなく、不安定さだ。


世界貿易をスロットマシンのように扱う男の気分の浮き沈みに、まともな国は未来を賭けない。


あなたは「敬意がない」と言うが、あなたはいったい何を世界に示しているのか?


規律?敬意?予測可能性?


あなたは米国の立場を癇癪か譲歩かのコイントスにまで貶めている。


それは政策ではなく、病理だ。


はっきりさせておこう。中国が米国から「むしり取った」のではなく、米国が進んで産業基盤を引き渡したのだ。


利益のために外注し、自国の労働者階級を切り捨て、鏡のせいにしたのだ。


中国は作った。あなたたちは投機した。


中国は計画した。あなたたちは紙幣を印刷した。


そして今、帝国はもはや競争することができないので、あなたは酔っ払ったギャンブラーのようにテーブルのせいにして脅した。


あなたの「一時停止」は慈悲ではない。


かつては影響力があった。しかし、何年も橋を燃やし、条約を破り、同盟国をいじめ、48時間ごとに矛盾を繰り返してきた結果、あなたが証明したのはこれだけだ:


あなたはパートナーではない


信頼できる敵ですらない。


崩壊しつつあるシステムの不安定なお荷物だ。


そして世界はそれを見ている。


75カ国から電話があったというが


しかし、彼らはあなたを信頼して電話したのではなく、あなたの帝国が築いたグローバル・システムに囚われ、それを生き延びようとして電話したのだ。


報復をしないのは、あなたが輸出するような不安定な状況を望まないからだ。


尊敬ではなく恐怖。


協力-人質管理ではない。


つまり、まともな神経をしていれば、このような話をする人物と契約を結ぶだろうか?


戦争になったかと思えば、次は "ご清聴ありがとうございました "だ。


あなたは指導者のようには聞こえない。まるで警告だ。


歴史はこれを戦略として記憶することはないだろう。歴史は、帝国が大声で、不規則に、無関係に、異言で話し始めた瞬間として記憶するだろう。


中国はあなたの支離滅裂さには屈しない。


5,000年も生き延びてきた文明が、1回の選挙サイクルさえ崩壊せずに生き延びることができない文明に説教されることはない。


そして90日が過ぎても何も動かなければ、また中国のせいにするだろう。


しかし心の底では、これが何なのかわかっているはずだ。中国を罰しているのではない。自分自身の崩壊を投影しているのだ。


私たちはそれを見ている。


世界はそれを見ている。


そして、関税をかけて衰退から抜け出すことはできない。




で、どうだい? 誰かこれに反論できるかい? 


彼は1976年生まれベトナム出身の一般人だよ


日本の「専門家」でこういうこと言える人物いるかい?


いないね、米国属国の日本には。



◾️アレクサンドル・ドゥーギンVictory as Existence by Alexander Dugin (@Agdchan)

現代のドイツや日本の行動に対する憤慨は無駄である。第二次世界大戦の結果、彼らは西側の奴隷となり、事実上、存在しないのである。

That is why it is pointless to be outraged by the behavior of modern Germany or Japan ― because they lost World War Two, they are now slaves of the West; they effectively do not exist.


戦後の日本の外交に関しては、もちろん、さまざまな要因を考慮しなければならない。

2・26事件の1936年以後敗戦の45年まで陸軍は事実上外交を無視していた。45年から52年まで占領下の日本には外交権がなかった。52年から「冷戦」の終わった89年まで、日本は「米国追随」に徹底していた。


ということは、事実上外交的な「イニシアティブ」をとる余地がほとんどなかった、ということである。日本国には半世紀以上も独自の外交政策を生み出す経験がなかった。そこでわずかに繰り返されたのが、情勢の変化に対するその場の反応、応急手当、その日暮らし、先のことは先のこととして現在にのみこだわることになったのだろう。


おそらく過去を忘れ、失策を思い煩わず、現在の大勢に従って急場をしのぐ伝統文化があった。〔・・・〕

人々が大勢に従うのは、もちろん現在の大勢にである。大勢は時代によってその方向を変える。…当面の時代、歴史的時間の現在、大勢の方向が決定する今日は伸縮するが、昨日の立場から切り離して、今日の大勢に、それが今日の大勢であるが故に、従おうとするのが大勢順応主義の態度である。その態度は昨日と今日の立場の一貫性に固執しない。別の言葉でいえば、大勢順応主義は集団の成員の行動様式にあらわれた現在中心主義である。

(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



しかしエリート非エリートに関わらず、殆どの日本の方々は、実に「今=ここ」の人だな、ある意味で感心するよ。



日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。


そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。


また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。


こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)