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2025年5月23日金曜日

蛸壺クラスタ内での「湿った瞳の交わし合い頷き合い」

 




ま、言ってしまえば、人間というのはもともとこういうもんなのだろうがな。身近な出来事にしか関心を示さないんだよ、主流メディアの影響も大きいが。


キミたちがガザのジェノサイドに無関心か、せいぜいお愛想程度に触れるだけで、身近な米価高騰問題にひどくアツクなっているのもーーこの憤り自体を批判するつもりはないがねーー、構造的には同じ現象だよ。



むかしーー2013年だからもう12年前になるがーーさる社会思想史研究者の次のツイートを拾ったことがあるがね。

生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。


でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。


みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われ憤激するかのたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは、胃袋からやはり社会構造へ。



実に印象的なツイートで、今でもふと思い出すことがある。特に《みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。》なんてね。


このツイートの是非は保留しても、彼は自己分析できているだけエライよ。今だったら、ガザのジェノサイドになぜ無関心で、米価高騰問題にひどく熱中するかの自己分析だ。もともと自己分析は自己正当化に陥るのが慣わしだが、そうは言っても「しないよりはマシ」。



他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)

私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年)


とはいえーー、

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている Human being cannot endure very much reality(中井久夫超訳エリオット「四つの四重奏」)

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)


これはこう引用している私ももちろんまったく例外ではない。



話を戻せば、先の社会思想史研究者のツイートの一般化版が、私がこの数年のあいだ繰り返し掲げている次のヴェイユだ。


一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )



あとは人間というのは本来的にこういうものだから諦めるかどうかだな。


例えばフロイト的に「知性のつぶやき」をし続けるか否かだ。


知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと、この知性の弱さは一種独特のものである。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めない。しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない。

Wir mögen noch so oft betonen, der menschliche Intellekt sei kraftlos im Vergleich zum menschlichen Triebleben, und recht damit haben. Aber es ist doch etwas Besonderes um diese Schwäche; die Stimme des Intellekts ist leise, aber sie ruht nicht, ehe sie sich Gehör geschafft hat. Am Ende, nach unzählig oft wiederholten Abweisungen, findet sie es doch. Dies ist einer der wenigen Punkte, in denen man für die Zukunft der Menschheit optimistisch sein darf, aber er bedeutet an sich nicht wenig. An ihn kann man noch andere Hoffnungen anknüpfen. Der Primat des Intellekts liegt gewiß in weiter, weiter, aber wahrscheinlich doch nicht in unendlicher Ferne. 

(フロイト『ある幻想の未来』第10章、1927年)


大衆は怠惰で短視眼である。大衆は、欲動を断念することを好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題をする。

denn die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit. 

(フロイト『ある幻想の未来 Die Zukunft einer Illusion』第1章、1927年)



《知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、おそらく無限の未来のことというわけではない》ということ自体を私は疑っているのだけれどね、これまた何度も掲げているクンデラ=フローベールの《文明の進歩とともに愚かさも進歩する!》に準拠して。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



ーーとはいえこれを言い出したらオシマイのところがあるんだな。インターネットの時代、実際に顕著に起こりつつある事態ではあるが。


ま、いずれにせよ、人間は集団になったらひどく劣化するよ。



集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。〔・・・〕

集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。

Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos,(…) Wer auf sie wirken will, bedarf keiner logischen Abmessung seiner Argumente, er muß in den kräftigsten Bildern malen, übertreiben und immer das gleiche wiederholen.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団における情動興奮と思考停止という二つの法則は否定されはしない。

Wir sind von der Grundtatsache ausgegangen, daß ein Einzelner innerhalb einer Masse durch den Einfluß derselben eine oft tiefgreifende Veränderung seiner seelischen Tätigkeit erfährt. Seine Affektivität wird außerordentlich gesteigert, seine intellektuelle Leistung merklich eingeschränkt, beide Vorgänge offenbar in der Richtung einer Angleichung an die anderen Massenindividuen; ein Erfolg, der nur durch die Aufhebung der jedem Einzelnen eigentümlichen Triebhemmungen und durch den Verzicht auf die ihm besonderen Ausgestaltungen seiner Neigungen erreicht werden kann. Wir haben gehört, daß diese oft unerwünschten Wirkungen durch eine höhere »Organisation« der Massen wenigstens teilweise hintangehalten werden, aber der Grundtatsache der Massenpsychologie, den beiden Sätzen von der Affektsteigerung und der Denkhemmung in der primitiven Masse, ist dadurch nicht widersprochen worden.

(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)



フロイトはこの文脈の中でシラーを掲げているがね、《だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう[Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.]》(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)


キミたちはツイッターでこの馬鹿化やってるだろ、蛸壺クラスタ内で「湿った瞳を交わし合い互いに頷き合って」。それだけはやめといたほうがいいぜ。


蛸壺クラスタ内現象の別名は、もちろんこれだ、ーー《エコーチェンバー現象(Echo chamber)とは、閉鎖的空間内でのコミュニケーションが繰り返されることにより、特定の信念が増幅または強化されてしまう状況の比喩である。エコーチェンバー化、またはエコーチェンバー効果(echo-chamber effect)とも言う。》(Wikipedia)


こうして次の種族が出来上がってしまう。

信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)