さて2つばかりアヤウイ投稿をしたので、口直ししとくよ。
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南方熊楠の「心事物」のトーラス円図は有名らしいね、今まで無知だったが。
今の学者、ただ箇々のこの心この物について論究するばかりなり。小生は何とぞ心と物とがまじわりて生ずる事によりて究め、心界と物界とはいかにして相異に、いかにして相同じきところあるかを知りたきなり。(南方熊楠『土宜法竜宛書簡』) |
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電気が光を放ち、光が熱を与うるごときは、物ばかりのはたらきなり(物理学的) 。今、心がその望欲をもて手をつかい物を動かし、火を焚いて体を煖むるごときより、石を築いて長城となし、木をけずりて大堂を建つるごときは、 心界が物界と 雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり。電気、光等の心なきものがするはたらきとは異なり、この心界が物界とまじわりて生ずる事(すなわち、手をもって紙をとり鼻をかむより、教えを立て人を利するに至るまで)という事にはそれぞれ因果のあることと知らる。その事の条理を知りたきことなり。(南方熊楠『土宜法龍宛書簡』1893年12月21~24日付) |
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ここでラカンのトーラス円図とその内実をいくらか触れておこう。少なくとも熊楠のものと一見似ている(ここでは知ったばかりの熊楠の図であり、これ以上言わないでおくが)。
私たちは存在を選択する。それは消え、私たちから逃げ、非意味に陥る。 私たちは意味を選択する。厳密に言えば、主体の実現において無意識を構成する非意味の部分によって剥がされることによってのみ生き残る。 言い換えれば、大他者の領域に現れるこの意味の機能、性質は、その領域の大部分において、シニフィアンの機能そのものによって引き起こされる存在の消失によって覆い隠されるということである。 |
Nous choisissons l'être : il disparaît, il nous échappe, il tombe dans le non-sens. Nous choisissons le sens : Le sens ne subsiste qu'écorné de cette partie de non-sens qui est, à proprement parler, ce qui constitue, dans la réalisation du sujet, l'inconscient. En d'autres termes, il est de la fonction, de la nature de ce sens, tel qu'il vient à émerger au champ de l'Autre, d'être dans une grande partie de son champ, éclipsé par la disparition de l'être, induite par la fonction même du signifiant. |
(Lacan, S11, 27 Mai 1964) |
ここにある非意味[le non-sens]は意味の排除=現実界のこと。
現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
そしてこの現実界をモノ=外密=異者=不気味なものとも呼ぶ。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
親密な外部、モノとしての外密(外にある親密)[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](Lacan, S7, 03 Février 1960) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974 |
フロイトからいくつか抜き出せば次の通り。 |
不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要) |
不気味なものは、ある種の親密なものである[Unheimlich ist irgendwie eine Art von heimlich.](『フロイト『不気味なもの』第1章、1919年) |
不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen](フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927年) |
不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの』第3章、1919年) |
この現実界としての非意味な「不気味なもの=外密(外にある親密)」は、ニーチェにもある。 |
不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年 |
未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親密さを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年) |
フロイトにとって不気味なもの、つまり異者とはエスの欲動のことである。 |
心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。 Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,〔・・・〕 不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。 daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年) |
自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕 エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
で、『ツァラトゥストラ』グランフィナーレの次の文に結びつく。 |
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?おお、人間よ、よく聴け! |
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! |
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
ニーチェには異者だってある、「異郷のおのれ」が。 |
偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre! つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle. (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年) |
これは明らかに「抑圧されたものの回帰」だ、ーー《抑圧されたものは自我にとって異郷、内的異郷である[das Verdrängte ist aber für das Ich Ausland, inneres Ausland]》(フロイト『新精神分析入門』第31講、1933年)。
なお、「抑圧されたもの」と訳される“Verdrängte”は、抑えるや圧するの意味はなく、本来は自我から分離、あるいは「解離されたものの回帰」とするのが正しい。▶︎「解離文献」。つまりエスに解離された異者の回帰だ。
ところで折口信夫の「まれびと」はニーチェ・フロイト・ラカンの異者つまり不気味なものだろうよ▶︎ 「まれびとが外に立つーー折口信夫の偉大さ」。異質なものと思われているだろう、南方熊楠と折口信夫を誰か結びつけてくれないかね、どの研究者でもいいから(僕は南方熊楠について全き初心者だからそんなおいそれたことはできないからさ)。
僕の研究は当面こっちのほうからだな、
よって説き出す一条は、紫稍花(ししょうか)で、これは淡水に生じる海綿の細い骨である。海から海綿を取り出し、ただちに水につけて面を掃くと、切られ与三郎のように30余ヶ所もかすり傷がつく。それは海綿には、こんなふうの細いガラス質の針があり、それを骨として虫が生きているのである。その虫が死んでもその針は残る。ゆえに海綿を手に入れたら苛性カリで長く煮てこの針を溶かしきり、柔らかくなったのを理髪店などに売り用いるのだ。 |
ちょうどそのように、この淡水生海綿の微細な針をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増にはさらに粗く、と精粗の別を必要とする)貯えておき、さて一儀に臨み、一件に付けて行なうときは、恐ろしさも忘れるほどに痒くなる(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その痒さが種々に移動するのをいうのだ)。 それから15日に山本氏から寄付金をもらい、25日朝、岡崎邦輔氏を訪ね寄付金1000円を申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話をしたところ、「僕にもくれないか」とのこと、君のは処女でないから難しいが何とか一勘弁して申し上げましょう」「何分よろしく」「今夜大阪へ下るからそこでも世話しましょう」とのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女に効く方法をしたため、速達郵便で差し出した。 |
それには山本農相などは処女を好くようだが、処女というものは柳里恭も言ったように万事気詰まりで何の面白さもないものである。それなのに特にこれを好むのは、その締まりがよいためである。 さて、もったいないが仏説を少々聴聞させよう。釈迦が菩提樹の下で修行して、まさに成道しようとするとき、魔王波旬(※はじゅん:「悪者」を意味する悪魔の名※)の宮殿が振動し、また32の縁起の悪い夢を見る。そのため心が大いに楽しまず、こうなっては魔道はついに仏のために破られるのだと懊悩した。魔王の3人の女は、姉は可愛、既産婦の体を現じ、次女は可喜、初嫁婦の体、三女は喜見と名づけ山本農相専門の処女である。この3人の女は釈迦の所に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となって戯れかかる。 |
最初に処女の喜見が何をしたって釈尊の心は動かない。次に次女の可喜が昨夜初めて男に逢った新婦の体で戯れかかると釈尊もかつての妻との新枕を思い出し、少し心が動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心は大いに動き、もう成道を止めて抱きつこうかと思ったが、諸神の擁護で思い返して無事を得た、とある。 だから処女は顔相がよいだけで彼処には何という妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに34,5のは後光がさすとの諺通りで、やっと子を産んだのが最も優っている。それは「誰が広うしたと女房小言言い」とあるように、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処が広くなる。西洋人などはとくに広くなり、我輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥居の間でステッキ1本持ってふりまわすような、何の手応えもないようなのが多い。だから洋人は1度子を産むと、もう前からしても興味を覚えず、必ず後ろから取ることが多い(支那では隔山取火という)。 しかしながら子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかもイカが鰯をからみとり、タコが梃に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわすなどの妙味がある。膣壁の感度がますます鋭くなっているため、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すので、盗賊の防ぎにもなる理屈である。 |
南方熊楠の「事の学」ーー心界が物界とまじわりて生ずる事ーーは交事の学だろうからな。「処女を悦ばす妙薬」なんてピッタリだよ。 ちなみに熊楠のトーラス円図の事のポジションにあるフロイトラカンの異者は『処女性のタブー』にもある。 |
フロイトは愛の狂気に陥ってしまうこと対して用心深かった。そう、ひとりの女と呼ばれるものに対して。言っておかねばならない。ひとりの女は不可解なものである。ひとりの女は異者である[parce qu'il avait pris la précaution d'être fou d'amour pour ce qu'on appelle une femme, il faut le dire, c'est une bizarrerie, c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
原始時代の男がタブーを設置するときはいつでも、或る危険を恐れている。そして議論の余地なく、この忌避のすべての原則には、一般化された女性の恐怖が表現されている。おそらくこの恐怖は、次の事実を基盤としている。すなわち女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものであり、それゆえ敵対的な対象だと。 |
Wo der Primitive ein Tabu hingesetzt hat, da fürchtet er eine Gefahr, und es ist nicht abzuweisen, daß sich in all diesen Vermeidungsvorschriften eine prinzipielle Scheu vor dem Weibe äußert. Vielleicht ist diese Scheu darin begründet, daß das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig und darum feindselig erscheint. |
男は女によって弱体化されることを恐れる。その女性性に感染し無能になることを恐れる。性交が緊張を放出し、勃起萎縮を引き起こすことが、男の恐怖の原型であろう。性行為を通して女が男を支配することの実現。男を余儀なくそうさせること、これがこの不安の拡張を正当化する。こういったことのすべては古い時代の不安ではまったくない。われわれ自身のなかに残存していない不安ではまったくない。 |
Der Mann fürchtet, vom Weibe geschwächt, mit dessen Weiblichkeit angesteckt zu werden und sich dann untüchtig zu zeigen. Die erschlaffende, Spannungen lösende Wirkung des Koitus mag für diese Befürchtung vorbildlich sein und die Wahrnehmung des Einflusses, den das Weib durch den Geschlechtsverkehr auf den Mann gewinnt, die Rücksicht, die es sich dadurch erzwingt, die Ausbreitung dieser Angst rechtfertigen. An all dem ist nichts, was veraltet wäre, was nicht unter uns weiterlebte. (フロイト『処女性のタブー』1918年) |
つまり異者には二重の相がある。トーラス円図の交わり目にあるのは同じだが、主体-自我側(心側)の相と大他者-現実側(物側)の相が。 |
疎外(異者分離[Entfremdungen])は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, … Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs. (フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年) |