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2025年5月24日土曜日

ヒトラーが外傷性戦争神経症だとしたら、イスラエル社会は外傷神経症か?

 

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーー戦争神経症とあるが、外傷性戦争神経症 [traumatischen Kriegsneurosen]である。中井久夫は阪神大震災被災以降、トラウマ研究に没頭したが、PTSDでは概念的に狭すぎるとして、フロイトの「外傷神経症」用語を頻用している。


外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; ](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)

トラウマ的出来事による刻印の強度の証拠として、睡眠中にでさえ、たえず患者はその場面へと強制されると考えられている。いわば患者は心的にトラウマへ固着させられているのである[Man meint, es sei eben ein Beweis für die Stärke des Eindruckes, den das traumatische Erlebnis gemacht hat, daß es sich dem Kranken sogar im Schlaf immer wieder aufdrängt. Der Kranke sei an das Trauma sozusagen psychisch fixiert](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)


ヒトラーがPTSD (心的外傷後ストレス障害)だったのではないかとは、英語版のWIKIにも次の記述がある(Psychopathography of Adolf Hitler)。


第一次世界大戦において、ヒトラーが前線兵士として人格形成期を経験していたことは広く認められているものの、心理学者たちが彼の精神病理の少なくとも一部は戦争トラウマ[war trauma]に起因する可能性があるという見解に至ったのは2000年代初頭になってからのことである。


Theodore Dorpat (2003)

2003年、シアトル在住の精神科医 Theodore Dorpat は著書『傷ついた怪物』を出版し、その中でヒトラーは複雑性心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたと指摘した。 Dorpat は、ヒトラーは戦争トラウマだけでなく、父親による身体的・精神的虐待、そして鬱病に陥った母親の育児不行き届きによって、慢性的な幼少期のトラウマも経験したと推測した。 Dorpat は、ヒトラーが11歳の頃にこの障害の兆候を示していたと確信している。 Dorpat によると、ヒトラーの性格特性の多くは、例えば、その気まぐれさ、悪意、人間関係におけるサドマゾヒズム的な性質、人間への無関心、そして恥の回避といった、トラウマに由来するものである。


同年、ドイツ人心理学者 Manfred Koch-Hillebrechtは、ヒトラーが戦争体験から心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたという仮説を提唱した。


Gerhard Vinnai (2004)

翌年、社会心理学者Gerhard Vinnai (2004)(ブレーメン大学)も同様の結論に達した。 Vinnai は著書『ヒトラー ― 破滅と破壊の怒り』(2004年)を執筆した際、精神分析学の視点から出発した。彼はまずヒトラーの著書『我が闘争』を深層心理学的に解釈し、ヒトラーが幼少期と青年期を背景に第一次世界大戦の体験をどのように処理したかを再構築しようと試みた。しかしDorpatとは異なり、Vinnai はヒトラーの精神における破壊的潜在能力は、幼少期の体験の結果というよりも、むしろヒトラーが第一次世界大戦で兵士として経験したトラウマによるものだと説明している。ヒトラーだけでなく、ドイツ国民の相当部分がこのような戦争トラウマの影響を受けた。 Vinnai はその後、精神分析的な議論を離れ、ヒトラーの政治的世界観がトラウマからどのように生まれたのか、そしてそれがどのようにして多くの人々に訴えることができたのかといった社会心理学的な問題について論じている。


2007年には、前述の Coolidge, Davis, and Segalもヒトラーが心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたと仮定した。




ゴダール、映画史



ヒトラーは1918年(29歳)、第一次世界対戦でのロシア前線に従軍しているときに毒ガス攻撃に遭遇し、ポメラニア(現ポーランド北西部からドイツ北東部にかけて広がる地域)のパーゼヴァルク Pasewalk 病院に入院している。


ヒトラーの『我が闘争 Mein Kampf』の記述はすべてが事実ではないとされるが、彼は1918年10月13日夕方以降の出来事についてこう記している。《ガス爆弾が夜中、雨のように降りかかり、夜半、我々の多くは失神した。多くの仲間はそのまま永遠に。私もまた、朝に向けて苦痛に囚われ、時を経る毎により酷い痛みに襲われた。そして朝の7時、私は灼けつくような目の痛みによろめき揺らいだ。数時間後には私の両目は、灼熱した炭になり、周りは暗闇に変じた。》


ヒトラーは不眠症で多量の睡眠薬・コカイン等を摂取したことでも知られている。特に第二次大戦中は、秘書たちと夜を徹して談話に耽り、朝6時頃に寝入り、午後1時から2時に起きるなどという事態になったらしい。そして部下とともの遅い昼食の前にも、強迫的なモノローグを延々と続けたなどという話もある。


こういった実証研究が遅れたのは、「理解することは許すこと」になりがちな相があったり、さらにホロコーストの当事者やその親族に対して二次外傷を引起こしがちであったりという相があることが大きく影響しており、実際は一部の精神科医のあいだではかつてから「密かに」想定されていたという話もある。


なおヒトラーには次のような話もある。

ヒトラーは秘書 Christa Schroeder に語った、「私は父を愛していなかった。いやそれどころか父を恐れていた。父は短気ですぐに殴った。私の可哀想な母は、いつもそのことで私を心配した。〔・・・〕


ヒトラーはまた弁護士Hans Frank にこう語った、「10歳から12歳のときでさえ、私は父をバーから連れ戻さねばならなかった。私がいままで経験した最も不快な恥辱だ。ああフランク、アルコールは何という悪なんだ! アルコールは本当に私の若き時代の最も不快な敵だった。( Hitlers Wien. Lehrjahre eines Diktators, Brigitte Hamann、1996)







………………





悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908年)


フロイトにとって欲動はトラウマであり固着である。異者としての身体 [Fremdkörper]ーー邦訳では「異物」と訳されてきたーーこの概念をを通して見ると、それが最も鮮明化される。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

トラウマの記憶を伴った潜在意識と結びついた概念の固着[la fixation de cette conception dans une association subconsciente avec le souvenir du trauma]

(Freud S. Etude comparative des paralysies motrices organiques et hystériques. 1893)


かつまた抑圧の第一段階も固着である(トラウマ的な欲動の固着)。

抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である。

固着は次のように説明できる。ある欲動または欲動的要素が、予想された正常な発達経路をたどることができず、その発達が制止された結果、より幼児期の段階に置き残される。問題のリビドーの流れは、その後の心的構造との関係で、無意識体系に属するもの、抑圧されたもののように振舞う。この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する。

Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. 

Die Tatsache der Fixierung kann dahin ausgesprochen werden, daß ein Trieb oder Triebanteil die als normal vorhergesehene Entwicklung nicht mitmacht und infolge dieser Entwicklungshemmung in einem infantileren Stadium verbleibt. Die betreffende libidinöse Strömung verhält sich zu den späteren psychischen Bildungen wie eine dem System des Unbewußten angehörige, wie eine verdrängte. Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege,

(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)


つまり抑圧されたものの原点にあるのは抑圧された「欲動=トラウマ=固着」なのである。


抑圧された欲動[verdrängte Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

抑圧されたトラウマ[verdrängte Trauma](フロイト『精神分析技法に対するさらなる忠告』1913年)

抑圧された固着[verdrängten Fixierungen] (フロイト『精神分析入門』第23講、1917年)


これらの回帰がフロイトにとって、先に掲げた「悪魔」ということになる。もっとも、晩年のフロイトのトラウマの定義は強度をもった自己身体の出来事であり、それが常に悪魔になるわけではないことを強調しておこう。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚の出来事である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕出来事が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )


とはいえ、抑圧されたものの回帰の原点がトラウマの回帰であるのは前期から後期まで一貫している、《抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは説明する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)



なおトインビーはユダヤ人について次のように言っている。


人類の歴史の陰湿な皮肉の中で、これ以上に人間性の邪悪さと救いがたさを明らかにしたものはないだろう。つまり、ユダヤ人は恐るべき迫害の憂き目に遭った直後に、ナチスから塗炭の苦しみを受けた教訓を生かそうとはしないで、自分たちがユダヤ人として被害者になったのと同じような犯罪を、加害者として再び犯さないようにするのではなくて、今度は自ら新たな民族主義者になって、自分たちの父祖が住んでいた郷土に今アラブ人がいるという理由から、自分よりも弱い民族を犠牲にして迫害したことである。(アーノルド・トインビー『歴史の研究』ARNOLD J. Toynbee, A STUDY OF HISTORY, ABRIDGEMENT OF VOLUMES Ⅶ―Ⅹp177.


この今、ユダヤ人の過去のトラウマがどのように機能しているのか、個人の歴史だけでなく民族の歴史においても「抑圧されたトラウマの回帰」が「悪魔」として顕れる場合があるのか否かについても、最晩年の『モーセと一神教』においてそれを示唆する記述がある。



先史時代に関する我々の説明を全体として信用できるものとして受け入れるならば、宗教的教義や儀式には二種類の要素が認められる。一方は、古い家族の歴史への固着とその残存であり、もう一方は、過去の回復(過去の回帰)、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰である。

Nimmt man unsere Darstellung der Urgeschichte als im ganzen glaubwürdig an, so erkennt man in den religiösen Lehren und Riten zweierlei Elemente: einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   (フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung)

忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである[Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)



もちろん宗教現象に限っての抑圧されたものの回帰を言っていると捉えることもできるが、ナショナリズム自体、『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンによれば宗教である。



ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属 nationality〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。

そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ]

これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。These deaths bring us abruptly face to face with the central problem posed by nationalism: what makes the shrunken imaginings of recent history (scarcely more than two centuries) generate such colossal sacrifices? I believe that the beginnings of an answer lie in the cultural roots of nationalism.

(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年)



とすれば、冒頭の中井久夫の《ヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的である》のヒトラーに「イスラエル社会」を代入することができてしまう。だが、これではまさに「理解することは許すこと」になってしまい、今の私にはひどく抵抗がある。





たぶんこう言う人がいるだろう、イスラエル国民は洗脳されているだけだ、彼らは過去のトラウマとは関係はないと。とはいえユダヤ人の過去の外傷的な歴史は紛いようがない[参照]、それが記憶に強烈に刻印されているかは別にして。


さらに別のアスペクトから言えば、「イスラエル人の半数はガザの全員を殺したいと思っている」としても、その中は次の心的メカニズムが働いている人が少なくとも何割かはいるだろう。すなわち《俺がガザ民を憎むのは彼らにひどい仕打ちをしたからだ》という負い目からくる憎悪が。


《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


ーー《フョードル・パーヴロヴィッチ:それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね。》(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)


負い目とか個人的責務という感情[Das Gefühl der Schuld, der persönlichen Verpflichtung]は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手[Käufer und Verkäufer]、債権者と債務者[Gläubiger und Schuldner]の間の関係のうちにもっている。ここで初めて個人が個人に対時し、ここで初めて個人が個人に対比された。この関係がすでに多少でも認められないほどに低度な文明というものは、未だに見出されないのである。値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換するーーこれらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟そのものになっているほどだ。最も古い種類の明敏さはここで育てられた。人間の矜持、他の畜類に対する優越感の最初の萌芽も同じくここに求められるであろう。

事によると、《Mensch》[人間](manas) というわれわれの言葉もやはり、ほかならぬこの自己感情のあるものを表現しているのかもしれない。人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、「本来価値を査定する動物」として自らを特色づけた[Vielleicht drückt noch unser Wort »Mensch« (manas) gerade etwas von diesem Selbstgefühl aus: der Mensch bezeichnete sich als das Wesen, welches Werte mißt, wertet und mißt als das »abschätzende Tier an sich«. –](ニーチェ『道徳の系譜』第2篇8 、1887年)



……………



なお中井久夫は、外傷患者に対する治療戦略目標を次のように記している。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。


しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー、一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)