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2025年5月28日水曜日

雨にけふる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ

 

そうか、こんなことがあったのだな


◼️南方熊楠が昭和天皇を案内する映像を「発見」 守りたかった島の自然

朝日新聞 杉浦奈実2025年5月26日 







こんなブログ記事もあるな、「今日は昭和の日 そして 昭和天皇と南方熊楠を想う日」2022年04月29日 





一枝も こころして吹け 沖つ風 わか天皇のめてまし森そ(南方熊楠)


雨にけふる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ(昭和天皇)






まったく知らなかったね、自らの無知をここに晒しておく。


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◼️中上健次『紀州』より

日本的自然において古代の天皇とは、日と影、光と闇を同時に視る神人だったように思う。賤民であり同時に天皇であるとは、謡曲「蝉丸」を待たずとも、 光と闇を同時に視る人間の眼でない眼を持つ神人のドラマツルギーであるが、「これはあきまへん、とこちらからサジを投げてかかる」という治者は、光と闇を同時に視る不可能な視力を強要されていることに苦悩がある。治者が、差別者であり同時に被差別者である神人でない故に、治者のやる事はことごとく玩物喪志であり、改良主義であり、せいぜい善意でしかない。ということは、被差別は差別するということである。 被差別こそが差別しなければならぬ宿命と言い直そうか。この日本では文化、芸能、信仰等において、被差別は差別するというのが一種テーゼとしてあったはずである。〔・・・〕


「天皇」を廃絶する方法は、この日本において一つもない。ただ、かつての南北朝がそうであったように、「天皇」を今一つ産み出す方法はあると思う。たとえば差別者は被差別者であるテーゼに集約された文化において、被差別者は差別するという事を免れているのは、被差別者と闇と光を同時に見る不可能な視力を持った神人(「天皇」)のみであろうが、それなら「天皇」を無化する事は被差別者に可能である。 闇の中から呼ぶ声に導かれて、目を覚まし氷粒の涙を浮かべているのは誰か、と思った。私は、そんな『死者の書』をその神社の森を見て、読んでいた。〔・・・〕


国家とは〈木〉と〈根〉の混淆する場所でもある。この紀伊半島を旅して書き記したルポルタージュをテキストとして、根という鍵言葉を元に読解してみるなら、根とは決してレベル以下のものを指していない事に改めて気づく。 被差別部落を根の国と読み換え、天皇を差別被差別の統括と考え両方を併せ持つ神人の一人と考えることは、レベルの転倒の事でもある。




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※附記



粘菌学進講の前に

神島
神島 / み熊野ねっと

 山田の従兄も御坊町へ帰るのに付いて羽山の別荘で琴やら裁縫やら歌俳諧に茶湯やら英仏語やらを教えて、故平沢哲雄氏の遺児を守っている吉村勢子女史へいい送る、

     妹尾に山居せし折、逗子海岸なる吉村勢子よりそこの景気はいかにと問ひおこせたりければよめる     南方熊楠

  わが庵は奥山つづき谷深くのきばに太きつらら(氷柱)をぞみる

平沢哲雄氏は、タゴールを連れて来朝させた三土忠造君の弟。もと和歌山県知事、今は衆議院議員と記憶する宮脇梅吉氏の妻の弟。この人は米国へ8歳のとき渡り、まるで欧米人のようである。『大菩薩峠』の駒井甚三郎そのままで、まことにおとなしい人である。

震災のとき、永井荷風方へ逃げのび、それから小生に頼みに来て、本山氏に会い、『大毎』派出員か何かの名義でパレスチナ、パリなどに遊び、帰ってまもなくチプスになり、自由結婚の妻の腹に鮒を盛り込んだまま置き去りにして冥途へ旅立たれました。この人特製の法螺の音が太い。

平沢氏の説のひとつというのは、その人と知らずにかたわらに行って特異の霊感に打たれた人は一生に2人、ひとりはポーランドの初代大統領パデレウスキー、いまひとりは熊楠とのこと。この人の世話で小生は岩崎家から研究費1万円もらった)



 それから、あんまり長居すると顔に似合わない情深い人と別嬪から乞食女まで押しかけて来るから、よい加減に3日めの夕に切り上げ、自動車で45分走って田辺の自宅へ帰る。さて妹尾で橇車ですべり下ったとき、固く橇のふちをつかんだため手に凍傷を生じ、癩病のように紫斑を生じ痛み悩むうち、2月初めに、宮城内生物学研究所主任服部広太郎博士が来られて、6月に御行幸があるから拝謁進講がなるかとのことで、重ねて4月24日に電信があり、よって御受け申し上げる。20年来辛苦し保存した神島で拝謁、夕刻御召艦長門へ召され、大臣、将官ら20方ほど侍坐の席で、陛下の御前に席を賜り進講いたします。

 岡崎邦輔氏からの来信に、小生のごとき政府や役所に何の関係もない無位無勲の者を召され御言葉を再三賜ったのは従前無例とのこと。御臨幸の前に小生は一書を山田の妻(名は信恵〔のぶえ〕)に遣わし、

「44年前の春、尊女の長兄と小舟を仕立て鉛山温泉へ渡った。ちょうどその舟が渡った見当の所に、今度御召艦がすわるのだ。ついてはひとつの頼みがある。熊楠は生来放逸で人を人とも思わず、これが大瑕で一切世間にもてない。それなのに今度この御命令があり、いささかも無礼不慎のことがあっては一族知人たちみなの傷となる。

仏経に、慧は男が女に勝り、定は女が男に勝るという。自分は何を信じるという心がけもないので、このような場合に神仏に祈念しても誰がこれを受けるだろうか。そこがそれ深川の小唄にもある『むかし馴染みのはりわいさのさ』で、尊女の長兄次兄とずいぶん近しい仲だったから、尊女がかの2人に代わって当日、熊楠が無事に進講を済ましてくれればこれを越える身の幸いなしと、一心不乱に念じてくれ。熊楠は自分に失態あっては尊女の一生に傷を付けるものと思って、どんなに気に入らないことがあっても無事をはかろう」といいやったところ、

「空蝉の羽より軽い身をもってそんな大事に当ることができるとは万にひとつも思わないが、お申し越しの通り全力を尽くそう」との返事があった。しかる上は安心と決定して進講の準備にかかる。