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2025年5月21日水曜日

フライドポテト化

 


そうかそうか、「フロントとラカンにとりつかれた左派おじさん」か。このフライドポテト化は気に入ったね。今まで他人から料理されたフライドポテトのなかで一番美味しいよ。


言語活動の体系の闘争。吸盤の隠喩。今度は、「イメージ」の闘争に話を戻しましょう。(《イメージ》とは、他者が私について抱いていると私が思う事柄です。)私についてのイメージは、どうして私が傷つくほどに《凝固する》のでしょう。また別の隠喩をお目にかけましょう。《フライパンに油がしかれます。平らに、滑らかに、音もなく(わずかに蒸気が上がる)。そこにじゃがいもを一切れ入れてごらんなさい。それは寝たふりをして機を窺っていた動物たちに餌を投げ与えたようなものです。いっせいに飛びかかり、取り囲み、音を立てて攻撃します。貪欲な饗宴です。じゃがいもの断片は包囲されますーー破壊されるのではなく。硬くなり、こんがり焼き色がつき、飴色になります。それは一つの対象、すなわち、フライドポテトになります。》このように、あらゆる対象にしたたかな言語体系は機能します。忙しく立ち回り、包囲し、音を立て、硬くし、金色に色づけます。あらゆる言語活動は沸騰の小=体系(ミクロシステム)、揚げ物料理です。これが言語活動の「マケー」の要点です。(他者の)言語活動は私をイメージに変えます生のじゃがいもがフライドポテトに変えられるように。


どのようにして私がまったくマイナーな言語体系の攻撃を受けてイメージ(フライドポテト)になり果てるか、お目にかけましょう。『恋愛のディスクール・断章』のおかげで、ダンディーで《無作法》なパリ・スタイルになってしまうのです。《しゃれたエッセイスト、知的ヤングの人気者、アヴァンギャルドの収集家、ロラン・バルトは思い出を次々に並べてみせる。才気煥発なサロン的会話の語調というわけではないが、しかし、<法悦状態>について視野の狭いペダンティスムを少しばかり披露してくれる。またまた、ニーチェ、フロイト、フローベール等々の名前にお目にかかれるというわけだ。》どうしようもありません。私は「イメージ」を通過しなければなりません。イメージは社会的な兵役のようなものです。私はそれを免れることはできません、不合格にしてもらったり、脱走したりすることもできません。私は、「イメージ」に病んでいる、自分の「イメージ」に病んでいる人間を見ます。〔・・・〕


「イメージ」をはぐらかす一つの手段は、おそらく、言葉を、語彙を歪曲することでしょう。〔・・・〕私はゆがめることを承知で、他人の言葉を引用します。単語の意味をずらします。このようにして、私がその成立に手を貸した「記号学」についても、私は自分自身の歪曲者です。私は「歪曲者」の陣営に移りました。この「歪曲者」の陣営は美学である、文学である、といってもいいでしょう。……(ロラン・バルト「イメージ」『テクストの出口』所収)



ロラン・バルト偏愛家の蓮實重彦によるヴァリエーションも掲げておくよ。


自分のこれまでの仕事を僕なりに振返ってみると、どうなるか。そもそも、自分の仕事をなぜ振返ったりするかというと、批評的な言説を読んでみてもどうもひとつピンとこない。それは自分の真意がよく理解されないことのもどかしさなどとは違った感慨であって、自分がしかるべき作品なり作家なりについて語るときに費やされる労力といったものが費やされていない物足りなさだと思います。


その物足りなさを自分自身で埋めあわせるというものあまり健全な話ではないかと思いますが、かりに自分が自分の批評家であったとするならば、蓮實重彦のこれまでの仕事は、一貫して、魂の唯物論的な擁護であるということになるでしょう。魂の唯物論的擁護ということが、僕自身にとっての批評の意味でもあるわけです。


魂というのは、きわめて具体的な言葉なら言葉の魂ということです。記号でも作品でもいい。文章でもかまわない。それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評なのではないか。そして、自分自身の言葉が、他人によって輝いたという経験も記憶もないのです。それは、蓮實重彦を語る人の多くが、イメージを介してしか論じていないもどかしさを与えるのですが、もっと困るのは、そのイメージが、僕と適当に似ていることです。そしてその相似によって、魂の唯物論的な擁護がいたるところで流産されていると感じる。ということは、批評の魂がものとして輝いていないという意味でもあるわけですが、僕のもどかしさは、むしろ、ほどよい類似にたどりつくしかないイメージの貧弱さです。そしてそのことは、ほとんどの批評について言える弱点となっている。


魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というものは、いささかも宗教的な意味ではないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は、宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。(蓮實重彦 柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988)



こう引用して思い出したが、クンデラもあるな



自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている。(クンデラ『不滅』第4部「ホモ・センチメンタリス」1990年)

「…人間とはイメージ以外の何ものでもないよ。哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ」〔・・・〕

「ぼくたちのイメージは単なる外見で、そのうしろに、世の中のひとびとの視線とかかわりのない、自我のまぎれもない本体が隠されているなどと思うのは、まあ無邪気な幻想だよ。徹底的な臆面のなさで、イマゴローグたちは、その逆こそ本当だと証明しているんだね。 つまり、ぼくたちの自我というのは単なるうわべの外見、とらえようのない、言いあらわしようのない、混乱した外見であり、これにたいして容易すぎるくらい容易にとらえられ言いあらわされるたったひとつの実在は、他人の眼に映るぼくたちのイメージなんだよ。 そしていちばん困るのはこういうことだね。きみにはそのイメージに責任がもてないんだ。 まず最初はきみ自身でそのイメージを描きだそうとやってみるし、つぎには、せめてそのイメージにたいして影響をもちつづけ、それを制御しようとやってみるんだけれど、でも無駄なんだね。なにか悪意のある言いかたひとつあれば十分、それだけでもうきみは永遠に嘆かわしい劇画へと変わってしまうのさ」(クンデラ『不滅』第3部「闘い」1990年)




で、せっかくだからこうも引用しとくよ。


愛はイメージである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イメージであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イメージである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée,](Lacan, AE193, 1965)