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2025年5月22日木曜日

馬鹿には馬鹿と言うべきなんだろうか


 しかし馬鹿には馬鹿と言うべきなんだろうか。





昔読んで感心した話がある。ヴァレリーによる礼儀正しいマラルメと辛辣なドガの話である。

◼️マラルメとドガ(ヴァレリー『ドガに就いて』吉田健一訳より)

この二人の交渉は決して簡単な性質のものではなく、またそうある筈がなかった。というのは、ドガの残忍なまでに無遠慮な意識的に邪慳な性格ほど、マラルメの意識的な性格と異なっているものはなかった。


マラルメは或る思想の下に生きていたのであって、彼が想像していた或る最高の作品が彼の生涯の究極の目標であり、それは彼にとって彼の存在を正当化するものであると同時に、宇宙そのものが包含する唯一の意味でもあった。彼はこの、宇宙の本質たる純粋な概念を保存し、それをますます明確にしていく目的の下に、彼の外面的な生活とか、人や出来事に対する彼の態度とかを根本的に建て直し、変換して、この概念を規準としてすべてのことを評価したのだった。敢て言えば、彼にとって人とか作品とかは、彼が発見したことの真理がどの程度に其処に明確に感知されるかということによって整理され、それによってそれらの人とか作品とかの価値が決定されるのだった。ということは、彼が彼の脳裡において多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去ったことを意味するのであって、彼が何人に対しても、礼儀を重んじ、忍耐強く、また真に驚歎すべき優しさを以て彼らを迎えたということの根柢には、常にこの非情さが横たわっていたのである。彼は誰が彼を訪問しても必ず面会し、すべて彼の所にくる手紙に、常に典雅な、そして絶えず新しい言い廻しで満たされた文章で答えた……。彼のそういう洗練された応対の仕方や、相手が誰であるかを問わない鄭重さはしばしば人を驚かせ、私にしても、極めて素朴な意味でそれを不愉快に思ったことがあるが、彼はこの普遍的に礼儀正しい態度によって、何人も侵すことができない一つの武装区域を設定し、その圏内に彼の稀有の矜持は、それが彼のものであることにおいて少しも損なわれることなく、彼と彼自身の特異さとの親密な対決の、無類の結実として存在する場所を与えられたのだった。


これに反してドガは一歩も人に譲ることがなく、事情を斟酌したりするには余りにも性急で、専らはったりで物事を批判し、まったく弁解の余地を残さないような辛辣な言葉ですべてを片づけてしまうことを好み、そういう彼の苦々しい気持が、何事も彼の何処かに潜んでいることが感じられ、事実彼は些細なことで機嫌を悪くし、たちまち激昂するのだった。そしてそれはマラルメの少しも変わることのない、滑かな、他人に対する気遣いに掛けて実に微妙な、そして絶えずこの上もない皮肉を裡に含んでいる態度とは似ても似つかぬものだった。


マラルメもドガのそういう、自分とは正反対の性格には幾分辟易していたように私には思われる。……



さてどちらがいいんだろう。驚嘆すべき優しさ、だが脳裡において多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去った非情なマラルメと、専らはったりで物事を批判し、まったく弁解の余地を残さないような辛辣な辛辣な言葉ですべてを片づけてしまうドガと。もちろんドガのやり方がいいわけではないが、真に他人を馬鹿にしていたのはマラルメではないか。


先の話に戻って言えば、最近の日本の経済学者はマラルメ的な優しい人が多すぎる気がしてならないね。



……………


マラルメについては、だが、捕捉しておかねばならない。真の詩人や芸術家であるならあの態度はやむ得ないところがある。


プルーストはこう書いている。


未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。


だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。

しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー génie〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの réel、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実 がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象 impression」された唯一の書物である。(プルースト「見出された時」)


あるいはジイドならこうだ。

今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである。これらの問題は、創造の魔神がすでに敗退したのでないなら、席を占めることはできなかったのである。どうして自己の価値を誇称する必要があろう、(かつてトルストイに現れたもの)、すなわち否定し難い減退を自分のうちに認めることを何故拒否する要があろう。(「ジイドの日記」1932 年 7 月 19 日)


創造の魔神が生きているあいだは、芸術家としては、先のマラルメ的態度が「正しい」のだろう。

だが、繰り返せば、詩人や芸術家でない者で、マラルメ的態度をとっている親切な人が世の中にはそれなりにいる。つまり驚嘆すべき優しさを表しつつ、脳裡において多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去っている者たちが。そしてヴァレリーのいう、《そういう洗練された応対の仕方や、相手が誰であるかを問わない鄭重さはしばしば人を驚かせ、私にしても、極めて素朴な意味でそれを不愉快に思う》ことがありうる。この意味では、ドガ風の辛辣な態度、他人を徹底的に馬鹿にする態度のほうが時に愉快に思うことがある。


次のものもなかなか愉快だな。




これはーー破綻後にやむなくやるのか破綻前にやるべきかは別にしてーー、かつて武藤敏郎組が提案した超改革シナリオにとっても似ている。




ふたたび話を戻せば、最も厄介なのは次のような馬鹿である。






すなわち冒頭の宗氏のツイートに賛同しながら、減税ポピュリズムの元祖山本太郎にも賛同しており、山本太郎の財政に関わる情報源がまったきデマゴギーであるのを見抜けない馬鹿である。



人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


さて、経済以外ではほぼマトモなことを言っており、ときにオピニオンリーダーとしても振る舞っているように見える「よしログ」なる馬鹿を馬鹿にすべきだろうか。これをするにはいくらか手間がかかる。山本太郎のどこがデマゴーグなのかをそれなりに説明しないといけないから。メンドクサイからほうっておかれる馬鹿であり、きわめて厄介な経済音痴の馬鹿である。


なお直近でたまたま「よしログ」の事例を拾ったのでシツレイを省みず掲げたが、このような例はいわゆる「インテリ」と呼ばれる種族にしばしば見られる。かつて中野重治が言った「芸能人」の範疇に属する似非インテリが巷では跳梁跋扈している。